古川亜希子・卒業研究要旨

映画と女性


I はじめに
 現在、1970年代のウーマンリブを経て、経済的、精神的、社会的自立を目指す
女性が増えつつあると思う。そして日本社会は、法律や制度などの改正により、遅れ
馳せながら少しずつ環境を整える方向に向かっているはずである。
 しかし多くの女性たちは、植え付けられつづけたあるべき女性像に縛られ、精神的
な自立を果たせずにいる。わたしは女性の多様な生き方が認められる社会に変容する
ためには、まず女性自身が、多様な生き方を選択し、実践していくことが大事なので
はないか、と思う。しかし、女性たちは経済的、社会的自立を果たしたとしても、ス
トレスの下で自信を失ってしまっている。一体何が女性から力を奪っているのか。
 それはメディアによるコミュニケーションに大いに関係がある。女性にとって目に
入る女性像の多くは、自立を促すようなものではなく、反対に疎外するものだからで
ある。これから自立をしていくべき女性の一人として、疑問と不安を感じずにはいら
れない。
 そこで、映画という、社会を映し出す文化と、そこに映し出された女性の姿を分析
することで、自立を促す女性文化について考えていきたい。

II 映画と社会
 映画は20世紀を代表する発明品であり、新しい文化である。そして「映画芸術
は、現在生きている人々がその発展をそもそもの始まりから目撃してきた唯一の芸術
である。」(アーウィン・パノフスキー『映画における様式と素材』) 
 映画は、最初の映像によるマス・コミュニケーションであり、社会的にあらゆる影
響力を及ぼす存在である。映画はそれ自体が、社会の技術的発展をあらわしつつ、社
会を描き、そして大衆に影響を与えている。ではなぜ映画は大きな影響力をもち得る
のか。映画は映像による「視覚文化」であり、見ることは人間に新しいコミュニケー
ションをもたらした。それは次のように説明されている。
「まず第一に、映画は新しい能力、見る力を人間に与えた。われわれはすべての世界
を見ることができる。われわれにとって、見られぬ世界はもはや存在しない。世界が
まだ未知の時代、われわれをとらえていた恐れや神秘感は取り除かれ、われわれは自
信をもって世界に立ち向かう。観客はスクリーンの上に自分と同じ無名の集団を目撃
し、自分たちが<歴史>の中でどんな役割を演じているかを理解する。そして<見
る>意識は、同時に<見られる>意識をつくり出す。<見られる>意識は、見るもの
に向かって演じる姿勢を強制する。スクリーンの中に自分を発見した人々は、やがて
イメージの に自分を育て、無意識に自分を演じ始める。さらにスクリーンのスター
がこの自分とダブりあい、スターを通してスクリーンの世界に入り込んで行く。映画
によるコミュニケーションは、観客と映像の特殊な一体化、同一化において、他に類
を見ない。(中略)映像に内在する<見る><見られる>の論理が、人々を新しいコ
ミュニケーションのシステムに巻き込んだのだ。」(岡田晋 『映画の世界史』)ま
た、岡田晋は、映画が、個人的なものであり、孤独なコミュニケーションである点を
指摘している。映画は自分だけの閉ざされた娯楽であり、与えられるのは、一方的な
メッセージの流れである。映画は一人一人の心をとらえながら「映像」の大量生産機
能によって、その一人一人を巨大なマスに変えてしまい、そこには人間同士のつなが
りはない。
 では「映像」と「視覚文化」とは何か。それはイメージであり、イメージのコミュ
ニケーションである。人々は、映像からその意味するものを読み取り、イメージを持
つ。映像は、資料という「歴史の亡霊」を超えて、生きているイメージを歴史に与え
た。そしてそのイメージは、マス媒体として「歴史」のなかで機能しはじめたのであ
る。そして映画はイメージを画一化し、「今世紀の人間の記憶と思考のシステムに、
決定的な影響を及ぼしてきたのである。」(四方田犬彦 『映画史への招待』)
 では映画と社会はどのように作用しているのか。
 映画は現実社会を移す鏡のようなものである。映画は、かならず何らかの社会を描
いている。それは、人がいれば、それが個人であれ、集団であれ、社会があるからで
ある。個人は必ず社会に属しており、個人の内面にも社会が在る。そのため、映画は
社会を必ず映し出すことになり、そしてその映画を生み出した文化の特徴を否応なく
背負っている。映画をつくりだす側の視点もまた、社会と文化によって形成されたも
のだ。そして、映画の観客は、単なる媒体メッセージの受容者ではない。観客は映画
を通して、映画の提供する社会に触れ、それを経験する。映画の世界に参加するわけ
である。これは人間の社会的な相互作用の一部であり、われわれの世界をひろげてく
れるものだ、とアンドリュー・テューダーは述べている。われわれは明かに自分と映
画の登場人物を同一視し、自己の感情、要求、喜びを投射するために彼らを利用する
のである。(『映画の観客』)
 そして、映画と社会は作用しあい、影響を与え合う存在であるため、多くの観客に
よって見られた映画は、それだけ社会的影響も大きいと考えられる。映画は産業であ
り、企業にとっての商品であるから、大量生産され、消費社会に組みこまれている。
観客に支持されない映画、大衆のイメージを引きつけない商品は、成り立たない。つ
まり、映画制作をする際に、売れる映画を作るように心がけることが重要になってく
る。ここでいう、大衆映画とは、実験映画や文化映画とは違い、映画産業と経済効果
に密接に結びついた、人気映画、ヒット映画のことである。
 大衆映画は、必然的に大衆の望む社会のあり方や欲望を映しつつ、大衆にそれを再
び植え付ける。現在、最も多くの映画館で上映され、最も多くテレビのロードショウ
で流され、最も人々の目に触れる映画、それが大衆映画であり、大衆映画の中の社会
が最も現実社会と作用しあっているといえる。そのなかで女性がどのような役割を担
い、どのように描かれているのかは、社会における女性のあり方を見ることと繋がっ
ている。映画が「視覚文化」であり「見る」ことそのものが社会に影響を及ぼすもの
であるため、観客が「見る」女性像は現実の女性たちへの視線へも影響しているので
ある。
 そのため第III章では、大衆映画の中の女性の存在と、映画を作る視点を決定する製
作者側のあり方から、大衆映画の中の女性像を探り、第IVでその大衆映画の中で、
女性の自立にかかわる映画として「エイリアン」シリーズをとりあげ、最後に映画と
女性の自立についてまとめとしたい。

III 1975年からの大衆映画日本における大衆映画
 1975年から1999年までの、日本における映画の興行成績をもとに、年代ご
とに女性がどのような存在であったかを考察していきたい。方法は、5年ごとに時代
区分をし、年間の興行成績ベスト5の中で、監督、主役、準主役の人物の性別をカウ
ントする。最初にクレジットに名前が出る俳優を主演とし、二番目に出る俳優を準主
役と考えていく。アニメ作品に関してはカウントにいれないこととする。性別の確認
ができない人物はカウントしていない。

1975〜1979

監督 男性 22
   女性  0
主役 男性 22
   女性  3
準主役 男性 12
    女性 10

1980〜1984

監督 男性 23
   女性 0
主役 男性 18
   女性  5
準主役 男性 14
    女性  8

1985〜1989

監督 男性 22
   女性 0
主役 男性 19
   女性   2
準主役 男性 14
    女性  7

1990〜1994  

監督 男性 22
   女性 0
主役 男性 21
   女性  1
準主役 男性 11
    女性 11

1995〜1999

監督 男性 21
   女性  1
主役 男性 20
   女性  2
準主役 男性 16
    女性 6

総括
 この25年間の興行成績を見て、単純に女性の数が圧倒的に少ないことに驚かされる。
女性の監督が一人しかいないというのは、非常に問題である。 
 90年代に入ると、女性が主役の邦画はなくなる。しかし、カウントには入っていな
いものの、女性が主役のアニメ作品が出てきている。監督は全て宮崎駿男で、作家の
人気をかんじさせる。他にもテレビで放送しているアニメ作品が高い収益をあげてい
るようである。
 そしてメジャーな洋画はほとんどがハリウッド映画である、この25年間に、大衆
はどのような社会を見せられ、どのような影響をうけてきたのか。焦点をハリウッド
映画に当てて考察していきたい。
 興行成績から、ハリウッド映画のメジャー作品は、男性が主役で、男性監督が撮っ
ていることがわかる。準主役級も、大差はなくとも男性のほうが多い。登場人物に男
性のほうが多いとなると、女性は描かれる場所、社会にいないかのようである。そし
てハリウッド映画で、準主役級の女優の役どころは、男性にとっての性的なシンボル
であったり、男性の家庭を守り世話をする役割であったり、性的な役割と補助的な役
割を果たすことが多い。男性主体の映画を見ているということは、観客はそのメッ
セージとイメージを受け取ってしまうということである。映画の中で、男性が女性を
見ている。男性がつくった、男性の視線の映画をみることによって、見るという行為
の能動者は「男性」であり、受動者は「女性」であるということを大衆は内面化して
しまう。そして、女性は自然と見られることを意識し、見られる存在として機能し、
男性は見ることによって、出来事を管理する能力を得る。視線は権力であり、その流
れは如実に権力関係を表している。この視線のやりとりは、映画と社会の相互作用に
よって、自然に社会に浸透していってしまう。女性が主役の作品であっても、男性監
督がつくり、そこにハリウッドの決まりごとがある限り、視線の関係は何もかわって
いないのである。
 つまり、大衆映画は「支配的父権社会」の視線を組み入れ、女性の主体性を無意識
的に奪っていってしまう。では、大衆映画で、女性を描いた、女性主体の映画は存在
し得ないのだろうか。

IV ハリウッドの戦う女 
 ハリウッドのメジャー作品として、1979年に制作された「エイリアン」は、男
性ヒーローがほとんどの大衆映画の中で、「戦う女」を主人公にした画期的な作品と
いえる。その後4までシリーズ化されたヒット映画であり、日本での興行成績も高
い。この大衆映画初ともいえる、「戦う女」はどのような女性であり、どのような社
会のなかで活躍したのか。そしてそれは女性主体の映画であり、女性の自立のモデル
となりうるものなのか、4シリーズを考察する。

 エイリアンシリーズ「1」から「4」までを見て、それぞれを比べてみると、4作が
まったく作風を異にし、違った映画であることが分かる。4作品とも興行的には一応
成功を収めたハリウッド産のSFホラーアクション映画である。しかし、監督が4作
品ともに違い、作風も監督とともに大きく変化しているため、ハリウッド映画のシ
リーズものとしては異例の作家性の高い映画にしあがっている。そして、それぞれの
映画の作られ方、雰囲気、女性の描かれ方に、監督の主観と、時代性というものが表
れているように思う。
 4作品は、未来という時代設定で、ほとんどの場面で異星や宇宙船など宇宙空間を
舞台に、恐ろしいエイリアンと、人間が生き残りをかけて戦うというストーリーであ
る。そのため、現実社会との接点はあまり見られない。描かれるのは、閉鎖的な、特
殊な状況下におかれた人間の「生きるか死ぬか」を基準とした行動である。そして、そ
れがリプリーという女性が強くいられる理由でもある。
 ホラー的要素の強い「1」では、リプリーの属する社会についてはほとんど何も読
み取れない。わかることは彼女が三等航海士であり、働いている女性であるというこ
とだけである。それは「1」は恐怖を描く映画であり、現実社会とのつながりは重視
されていないからであろう。乗組員たちの態度には、まったく性差や不平等は感じら
れない。1976年という時代に、たとえ未来という設定であろうとも、リアリティ
のある平等な社会や、関係性を描くのは難しかったためか、人間関係などはほとんど
省かれてしまっている。そのため、宇宙船の中の社会は、無味乾燥な、不自然なもの
にかんじられる。
 では、1976年とはどういう時代だったのか、この作品から読み取れる事のひと
つに、クレジットでのキャストの扱いの不公平さがある。また、女性のステレオタイ
プの描き方がある。もうひとりの女性乗組員は、経験のある航海士であるはずなの
に、すぐに怯え、泣き出す。冷静で力強いリプリーでさえも、感情的になると泣き出
してしまうのだ。ここには1976年に男性監督の目からみた、平等社会、というも
のと、その中で働く女性像の限界が見える。しかし、フェミニズムの波がおしよせた
直後であった、この時代にハリウッドシステムの中で作られた、女性が主役の映画と
いうのはそれなりの必然と受容環境が整ってきたことの表れでもあると思う。確かに
主役のリプリーの人間性は、ほとんど垣間見えない。だが、男性俳優の相手役や、補
佐役ではない、戦う女性像が観客に受けた。
日本での興行成績は、年間6位で14億五千万円の配収があったのである。
 「2」で描かれる海軍を中心とした社会は、性差はあるものの、かなり理想化され
た平等社会である。「強い女性」と「母性愛」は「ターミネーター」シリーズでも見られ
た監督キャメロンのお気に入り路線で、あまり現実的ではない。特に、軍隊という場
所で、女性が先頭を取ったり、男性とまったく対等にあるというのは考えられない。
また、完全に実力主義の海兵隊員たちは、エイリアンの脅威にさらされる前から、リ
プリーの力を認め、受け入れている。「1」とは違って、それぞれにキャラクターが
与えられており、面白く描かれているが、やはり性差にかかわる面倒な部分は省く、
というやりかたで平等な社会を描いているようである。この作品は、娯楽大作として
評価が高く、エイリアンの数の多さや火銃器を使った戦いの様子は、戦争映画さなが
らである。日本では興行成績11位で、12億万円の配収があった。
 「3」は、エイリアンシリーズで、もっとも異端な作品であり、公開当時は批判的
な意見も多く、失敗作との評価もあった。しかしもっともリアリティのある男性社会
が描かれているし、リプリーの女性としての「性」がはじめて現われ、人間としてリ
プリーが描かれている作品であると思う。そしてそれは興行成績2位、配収19億五
千万円という数字にも表れている。しかし、前作のような娯楽大作を期待している
と、不愉快な現実社会を見せられて満足は得られなかったのではないか。
 この作品には派手なエイリアンとの戦いはない。火銃器は一切なく、ただエイリア
ンに追われる恐怖を味わうだけである。銃や爆発などを使わない、というのはこの作
品からプロデューサーに名前を連ねているウィーバーの提案だという。そしてこの閉
塞した世紀末的な雰囲気は、90年代の閉塞感に通じるものがあると思う。
 刑務所という設定では、男性のみの社会を描くことにより、現実社会に近い感覚を
生み出すことに成功している。そしてそのなかでリプリーは、冒頭で子供を失ったこ
とにより、「母」でなくなり、初めて「性」が与えられたようである。そのかわりにエイ
リアンの子供を腹に宿し、それが彼女を強くしている。
 「4」に至っては、一度死んだリプリーはエイリアンとの融合体であり、人間では
ない。よってどこまでも無敵だし、「女性」性などとは無縁である。しかし、自分の
クローンでもあるエイリアンには母性本能を抱き、またロボットにも優しさを見せ
る。「4」は制作側の混乱が表に出てしまっている部分が多いように思うが、リプ
リーだけが異常に強く、ロボットであるコールも含めて、他の女性は完全にステレオ
タイプであるという点では「1」「2」と同じである。
 時代性が出ている点をあげるとすれば、失敗したクローンたちを見て、リプリーが
「ひどい」というグロテスクなシーンがある。現代の行き過ぎた、生命倫理を超えた
科学に対する警鐘のような場面である。そして徹底的に生命倫理を壊していく存在と
しての科学者があり、科学者のメインは男性である。
 興行成績は最も悪く10億円で、順位は20位であった。
 反対にエイリアンシリーズの全ての作品に共通している点がいくつかある。
 まず「母性」という、リプリーの特質でもある、作品全体のテーマである。どの作品
にも、あちらこちらに「母親」を意味するようなものや事がちりばめられており、エイ
リアンが出てくるときに腹を食い破られる時の人間は、妊娠している姿を連想させ
る。しかし、そのエイリアン自体のフィギュアを、デザイナーであるH・ギーガーは
男性器をモデルにして作り上げている。
 また、シリーズが進むごとに、エイリアンとリプリーの「母性」が共に進んできてお
り、「1」ではエイリアンは卵から産まれるということしかわからなかったが、
「2」ではエイリアンクイーンという卵を生む女王が現れ、最後の戦いの時、リプ
リーはクイーンに対して「ビッチ」と叫んでいる。「4」ではついにエイリアンは子
宮を持つに至る。リプリーの母性愛の対象は「1」では「猫」であり、「2」では子供
であり、「4」ではロボットと、エイリアンにまでも及ぶ。
 そして、シップやコンピュータは、マザー、ファザーなどと呼ばれている。
 もうひとつの共通点として、登場人物の男女、人種の比率や重要度のパターンがあ
る。どの作品でも登場人物は白人男性が圧倒的に多い。男性しかいない刑務所という
設定での「3」以外では、女性は主人公の他に、1〜3人ほど現れ、その中で、名前
がわかるほどちゃんとしたキャラクターとセリフを与えられるのは1人だけである。
黒人男性はかならず、2〜3人現れ、女性と同じく、活躍できるのはその中の一人だ
けである。にもかかわらず、描かれる関係はとても平等だということも共通してい
る。しかし、平等なようでいて、その中での女性の仕事は、船の操縦や科学者の助手
であり、キャラクターを与えられた女性以外は、すぐに殺されるのだが、感情表現は
怯えたり、泣いたりするというものだけである。未来が舞台ということで、平等社会
が実現している設定なのかもしれないが、描き方は無個性なキャラクターほど、性別
役割分業が表れており、矛盾している。エイリアンと戦うリプリーが強くなればなる
ほど、リプリーは特別な存在になっていき、映画の中に、少数存在する女性とはかけ
離れてしまう。そして最後には本当に半分モンスターになってしまうのである。
 では「3」の1シーンを除いて、リプリーは男たちよりも強く描かれ続けている
が、エイリアンと戦うアクションヒロインであるリプリーは、他のハリウッド映画の
アクションヒーローとどこが違い、どこが同じなのか。リプリーは身長も高く力もあ
りそうで、実際肉体的にもかなり強い。そしてもちろん精神的にも強く、頭が非常に
良い。行動力があり、リーダーシップを取れるし、他の人間を助ける存在である。こ
こまではヒーローの特質を備えているといえる。だが、たいていヒーローには若い女
性とのロマンスめいたものがあるのに、リプリーには何もない。そしてヒーローは、
怒ったり悲しんだりすることはあるが、ほとんど涙を流さない。そして怯えることも
ない。それに対して、リプリーは一つの作品中、かならず1回は涙を見せるし、エイ
リアンと戦う時は小刻みに震えている。ヒーローになくてリプリーにあるものは、母
性だけである。子供を守ってやり、細かく気遣ってやる、そのやり方だけがヒーロー
と違っている。
 リプリーはたいていの男に負けない強い女ではあるが、「それだけ」というかんじ
がする。過剰な母性本能はそれが女性の全てであるようだし、強さの「いいわけ」の
ようなかんじがあるのだ。「エイリアン」の作品中の、いい加減な平等社会と同じよ
うに、ただ男と女の差を目立たないようにさせること、男と女を同じように扱ってい
るように見せる、それがリプリーをリアリティのない女性にしてしまっている。
 しかし「エイリアン」が、ハリウッドのメジャー映画ではじめて一人で実際に体を
張って戦う女性を登場させた意味は大きい。「母性」という後ろ盾があるにせよ、誰
よりも強い存在として女性が認められたのである。登場人物のなかで最も頭がよく最
も強い「女性」の登場は、観客の意識に変化をもたらしたのではないか。だがその一
方で、リアリティに欠ける、男性社会にとって都合のよい戦うヒロインを見せること
で、女性の自立した姿を見せるのではなく、女性の自立の意味を狭めてしまっている
部分が大きい。その意味で、エイリアンの主人公「リプリー」は、自立した女性の
ロールモデルとしては特殊すぎ、女性に一過性の満足感を与えるだけのヒロインにす
ぎない。「戦う女」は日常生活の自立のモデルにはなりえないのである。

V まとめ
 主に日本で受け入れられたハリウッド映画を中心に、大衆映画の中の女性像、女性
の自立について見てきたが、「エイリアン」のリプリーからわかるように、ハリウッ
ドの「強い女」は本当にただ強いだけで、「女性」とも「自立」とも関係がないよう
である。「3」で話題になったウィーバーのスキンヘッドからもわかるように、髪が
女性性を象徴するものと考えるならば、それをそぐことでリプリーは強いだけであ
る。
 映画制作の現場に女性がいない大衆映画は、今の段階では自立した女性をリアリ
ティを持って描くことはできていない。反対に、男性中心主義の映像を見せ続けるこ
とによって、大衆にますます支配的な文化を沁みこませているとすらいえる。リプ
リーのような「安全な」ヒロインでさえも、強くいるためには女性であるより、エイ
リアンの側に立ったほうが描きやすい。しかし、エイリアンのヒットにより、女優の
シガニー・ウィーバーが権力を得てクレジットでの扱いが大きくなり、またプロ
デューサーとして参加したり、「2」ではゲイル・アン・ハードという女性のプロ
デューサーを起用したりなど、女性の意見を映画にいれる、という点では進歩がみら
れたのかもしれない。
 また、90年代後半に、女性監督ミミ・レダーのSF作品が現われ、少しずつ変化
する方向に向かっているのではないかと思う。レダーの作品には多様な人間性が描か
れている、と評価が高く、興行成績もよかった。もうひとつ、女性を主演にした「ツ
イスター」「スピード2」は、ともに監督はヤン・デ・ボンであるが、「強い」女で
はなく、普通の女性が活躍するストーリーになっている。しかしハリウッド映画とし
て面白い作品であるかどうかとはまた別問題でもある。ほとんどが男性のために作ら
れているメジャー映画で、いまのところ、女性が主役の映画というのは、男性の機
嫌を損なわないようなつくりになっているようである。
 現在の大衆映画は女性を描けていないし、描くつもりもないというのが現状であ
る。では女性のために、女性を描く映画はどこにあるのか、というと、ハリウッドや
大きな映画制作会社とは別の場所で、女性監督が少なからず映画を製作している。そ
れは「男性文化」や「メジャー映画」に対する抵抗や挑戦ではなく、まったく別の次
元で、自分たちの文化を創造していこうという試みである。そこにある「自立」とは
「男性文化」からの「自立」ではなく、ただ自分の足で地面に立つという意味の自
立である。そのために、「立つ」場所である地面という基盤を、既存の概念や視点に
たよらず、自分自身で作り上げていくところから始めなくてはならない。それは「現
存する支配的な価値体系を打ち砕き、社会的・文化的秩序の基盤自体に挑戦する」こ
とである。(トリン・T・ミンハ『月が赤く満ちる時』)そしてそれは制作する側だ
けでなく、観客であるわたしたちにも必要なことなのだと思う。
 映画は社会を映し、観客の趣向に影響されるものなのであるから、映画が変われば
観客も変わり、またその逆の場合もある。これから、映画が観客にとって、これまで
と違う相互作用をしていける文化となり、いつも新しい視点で多様な文化を描き、驚
きを与えてくれる存在になることが重要である。そしてそのような映画が増え、観客
もともに変化していけるのならば、大衆映画もまたおのずと変わっていくのではない
か。

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Contents by KOGAWA, Akiko. 2001.3.23