2002年度講義

現代文化論

(※このページでは、前期高橋の担当部分について主に紹介しています)



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 概略 

【担当者】
 高橋・伊藤・兼田・境野・中山庸

【講義のねらい】
 現代文化についての基礎概念・視角を学ぶとともに、文化・社会の具体的なあり方について、(1)歴史、(2)地域コミュニティ、(3)教育、(4)比較文化、の4つの視角から考えていきます。

【講義概要】

《前期》(高橋)
1 文化の基礎概念
(1)文化とは何か
(2)言語・文化・身体性
2 現代文化を見る視角
(1)文化の政治学――階級とジェンダー
(2)文化の再生産――家族、教育、メディア
 ※前期は講義と合わせて数回の課題を出します。

《後期》
3 現代文化の諸相
 I. 日本の伝統芸能と謡曲 (伊藤)
 (1)能と謡曲の歴史
 (2)能・謡曲の中の女性
 (3)障害者と謡曲
 (4)現代社会と謡曲
 II. 都市化とコミュニティ (兼田)
 (1)旧い農村と新しい都市の生活様式
 (2)都市化と地域問題
 (3)コミュニティと地域自治
 III. 学校文化にみる社会的機能 (境野)
 (1)社会的秩序の形成と学校教育
 (2)教育機会の平等と文化的再生産
 (3)学校文化と家庭文化
 IV. 現代スウェーデン文化――異質な文化について知る (中山庸子)
 (1)メディアから読みとる社会の姿
 (2)教育の底流にあるもの
 (3)家庭のあり方
 ※後期講義順は変更になる場合があります。

【評価方法】
 前期は期末の試験またはレポートで評価します。後期はレポートを課します。

【学生へのメッセージ】
 本講義の前期2の(1)および後期IV.(中山庸子担当分)は行政社会学部の「女性学・ジェンダー研究プログラム」への登録科目です。

※以上、講義要項の記載に準じています。



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 内容 


■第1回(4/17) イントロダクション
 いきなりの作業でとまどった方もいたかも知れませんが、これについては次回詳しく説明します。今日はこの講義のカリキュラム上の位置づけ・内容と構成の紹介・教員からのお願いが中心でした。さすがにそれだけというわけにはいかないので、「文化とは何か?」という問いかけをしておきました。これについても来週詳しく触れます。
 大学へ来て、いろいろととまどいもあるかと思いますが、おいおい慣れます。まあ、ぼちぼちやりましょう。
 最後にみなさんに書いていただいた感想は、別のページにまとめてありますので、見ておいてください。

■第2回(4/25) 文化とは何か
 今日はなぜか(ってことはないか)ひどい咳をしている人が多かったですね。
 最初にまず、先週の感想紹介・コメントから入りました。最初なので少し丁寧に。やや時間を取りすぎました。(「講義」ぐらいははちゃんと書いてね。)
 「文化とは何か?」が今週のメインテーマ。狭く「芸術・伝統芸能・思想etc」と限定する考え方もあるけれど、この講義では広く「人間のすること全部」として考えていきます。もう少し言うなら、「個人に内蔵されている社会的規範としての認識枠組み」ということ。これによって人は世界を認識し、新たな創造を行なっていきます。
 先週皆さんにやってもらったサウンドスケープの課題は、この文化概念の説明のためにやったものでした。まず、(1)音を聴いてそれを表現した人それぞれが文化の担い手であり、まさに個人の中に(音の聞き方・表現の仕方という)文化は内在しているということです。しかしだからといって、(2)その場にいるみんながバラバラに聴いているというわけではなくて、ある「規範」にしたがって聴いている、つまり、回答の仕方や「音」として書かれているものの種類などはいくつかのパターンに分けられる、ということがありました。日本語で書かれているからなんて書いてあるかわかる、ということもありますよね。また、(3)音源だけが問題なのではなくて、音を聞く全ての人のところで「聴く」という行為は行なわれている、すなわち文化のあり方は「拡散している」ということが確認できたかと思います。
 サウンドスケープとは、ある音が物理的に存在することと、人がそれを知覚・認識することとはイコールではない、音はまさに文化現象であるということを説明するための概念ですが、この講義の初めで使うのにすごく便利なものなので、「情報管理論」の永幡幸司さんからおしえてもらって「現代文化論」で使わせてもらっています。関心がある人は彼にメールを出しましょう。
 時間が足りなくて、最後は駆け足でした。サウンドスケープについてはまた今度確認します。次の課題の提出をよろしく(下を参照)。5月1日までですが、さっさとすませて遊びに行くのもありです。わからないことはたかはしまでメールで問い合わせて下さい。

■第3回(5/8) 言語・文化・身体性(1)
 連休は楽しめましたか? しばらく祝日もなくなります。ペース配分しながら行きましょう。
 さて、連休中たかはしはみなさんのレポートを読んでいました。このレポートは2番目の問題、言語と身体とが文化にどう関係してくるかという話にかかわるものです。シラバスを見ていてくれればわかったかと思うのですが。
 題材はいろんなのがありました。コーヒー、紅茶、チョコレート、ヨーグルト、カレー(レトルト含む)、アイソトニック飲料、お茶(緑茶、中国茶、その他)、発泡酒(って書いてあったけど、ビールも入ってます)、コーラ、果汁飲料等、など。「車」や「モー娘。」はいなかったが、ドレッシングはちょっと……。
 この課題のねらいは2つ。まず、「比較する」という文化研究における方法論の実践、そして、「味」という身体的な感覚を表現するということについて考えること。(実は音も同じだけど。)
 「比較」するとどうなるか? 何人かの人がレポートですでに指摘してくれていますが、一つ一つの対象の特徴がよりはっきりするということがあります。また、比較のためには何か共通の尺度をおく必要がありますが、その尺度を応用することでいろいろな対象に適用して次々に比較することができるようにもなります。何人かの人がやはり、この点でさまざまに工夫してくれていました。
 もう一つ、「味」を表現するということは、体で感じ取ったことをことばで表現するということです。官能(味覚)に秀でていないと微妙な味はわからないけど、まず感じているものを何らかの「味」として認識できないと自分でも「味」を感じているとわからない。また、それをわかるようなことばで表現できないと他人には伝わらない、ということがあります。みなさんのレポートの例や尾瀬あきらさんの『夏子の酒』(講談社漫画文庫)の数シーンを見ながら、このあたりを検討しました。その中で、いかにみなさんの味の表現が、CM・パッケージのコピーや商品のイメージに縛られているかということも分かったかと思います。体の感覚として味を表現しているつもりで、実は目や耳で受け取ったものを繰り返していることがあるってことですね。
 それともう一つ、「おいしさ」がどう作られていくかを『夏子の酒』の利き酒のシーンを参考にしながら考えてみました。「これはいい酒」「これは悪い酒」と佐伯酒造で働く草壁が分けた酒を飲み比べていきます。つまりこれは、「うまさ/まずさ」がわかる人間が、「これがうまさだ」と他の人間に伝えていくという場面、まさに「おいしさの基準」が社会的に伝達されていくプロセスなわけです。味覚もまた、純粋に生理学的なものではなく、社会的規範の一つに他なりません。

■第4回(5/15) 言語・文化・身体性(2)
 今日は言語と文化の関わりについて、構造言語学の基本的な概念を押さえることによって考えてみました。
 構造言語学の基礎を築いたのは、スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュール(1857〜1913)です。彼はまず、言語には「言語能力(ランガージュ)」、「言語(ラング)」、「発話(パロール)」の3つの様相があると考えました。そして、言語を構成するのは「記号(シーニュ)」であり、記号は「意味するもの(シニフィアン)」と「意味されるもの(シニフィエ)」からなる、と考えました。
 ラングは一つの構造(ソシュールによれば「体系」)です。つまり、個々の要素の単なる寄せ集めではないということを意味します。記号は他の記号との相互関連の中で初めて個の価値が生じるのですが、その際存在するのは、「〜ではない」というネガティブな意味での「差異」だけです。
 例えてみると、ラングとは網の目のようなものです。網は穴があることが重要なのですが、穴を成り立たせているのは穴そのものではなくて、糸ですよね。この糸が差異に当るわけです。
 その網の目を通して、わたしたちは世界を見ています。言語というフィルターを通して世界を見ることによって、わたしたちは世界を分節化し、理解をしていきます。言語は「世界をどう認識するか」ということと重要な関わりを持つものだというわけ。
 重要なのは、言語がなければ世界を認識することができず、したがってわたしたちの意識もまた混沌としたものであるということです。意識があって、その表現手段として言語があるというのではなく、言語があって初めて世界が認識され、そして意識が生じるのです。

■第5回(5/22) 第1節のおさらいと文化の政治学・イントロ
 先へ進む前に、文化記号学(ロラン・バルト)について補足しておきました。『神話作用』(篠沢秀夫訳、現代思潮社)という著書の中で述べられていることですが、1つの記号が今度は別の意味作用(メタファーのようなもの)をともない、それが受け手には確定したものとして受け取られるというようなことです。
 たとえば、「バラ」という記号はシニフィアンの「バラ」とシニフィエの「バラ」からなるわけですが、その記号全体が今度はシニフィアンとなって、「情熱」「恋愛」などのシニフィエを持つようになる、というようなこと。こうしたメタレベルの意味作用をバルトは「神話作用」と呼ぶわけですが、言語と同じようにこの場合もシニフィアンとシニフィエの結びつきは恣意的であり、しかし同時にその文化の中にいる人間にとっては必然として受け取られてしまうことになります。いろんな意図やたくらみがそこにこめられていても、「当たり前」になってしまうのですね。
 ……さて、ここまでが第1節ということで、簡単に今までのおさらいをしておきました。内容は省略しますが、反復によって少しでも定着が進めば幸いです。
 次の第2節は「現代文化を見る視角」がテーマ。これまで、「文化とは」とおおづかみに文化像を検討したり、文化の基盤をなすと思われる身体や言語の問題を考えてきたわけですが、これからはもっと文化・社会そのものに接近して、その中にある亀裂やまとまりのようなものに目を向けていきたいと思います。
 で、そのとっかかりとして用意したのが、前回にみなさんに答えていただいた「ダイエット」についての簡単な調査データです。
 これはもちろん統計的手法で分析することができます。今回は単純集計に続いてクロス集計と多変量解析の一つである回帰分析をしてみることで、どのぐらいのことがわかるのかを見ていただきました。ちょっとびっくりしたのは、女性の身長と理想体重の近似式(一次式)が、昨年とほとんど同じになったこと。来年どうなるのか、今からちょっと楽しみ?でもあります。
 統計の話は数学を使うので、みなさんの中には苦手に思う人もいるかも知れません。でも、社会に出て仕事をする上で統計処理とは無縁でいられないだろうし、特に公務員になるなら自分が調査の企画を立てて、データ処理の結果を使っていくこともあると思います。(県庁とか、特に。)ある程度は知っておいた方が、あとあといいと思います。具体的なことについては、社会調査論や情報管理論を受講してください。
 さて、同時にこのデータは、身体をめぐるジェンダーの力学を表わしているものでもあります。そのあたりはまた来週ということで。ちょっと時間が足りませんでした。

■第6回(5/29) 文化の政治学・ジェンダー
 前回のおさらいですが、「文化の政治学」というときのその「政治」とは、狭義の政治(国会、議会制、選挙、etc、などというようなもの)ということではなく、「社会の成員間に働く力関係」という広義の意味での政治を意味します。この力関係のことを「権力」とも呼ぶわけですが、一般にいう権力とも少し違うので注意。ここでは、ミシェル・フーコーのいう「ミクロ権力」の概念に沿っています。
 さて、権力関係はなにか「差異」があると発生しますが、ここでは「女/男」という差異をまず取り上げていきましょう。いわゆるジェンダーの問題です。ジェンダーはセックス(生物学的・遺伝学的な性差)と区別される、「性」にかかわる一つの相で、「文化的・社会的な性差」を大まかには意味するものです。このあたりは資料で配った「用語解説」で説明していますので、参照してください。
 ジェンダーは、社会によって違うことがありうるもの、そして歴史的に変動しうるものです。講義ではミードとバダンテールの研究を紹介しておきました。セックスは変えられない、というか、変えにくいものですが、ジェンダーは変わりうる・変えうるもの。だから、もし今のあり方が好ましくないものなら、それを変えようとしてもいい、ということでもあります。(だからこそ、これまで社会運動のイシューとして取り上げられてきたわけですね。)
 詳しくは「ジェンダー論」でお話ししたいと思います。来週はもう一度「ダイエット」の問題に帰って、今日のところを確認してから先に進みましょう。

■第7回(6/5) 文化の政治学・階級と階層
 さて、要は「ダイエット」というのは、女性の身体をめぐって働く権力の作用の一つの表われだということです。「やせてきれいになりなさい」というメッセージが、女性に対して、ことばと形の二つの面から届けられ、さまざまな身体に関わる実践を通じて内面を構成する、その結果が体重の理想をめぐるはっきりとした基準意識となって出てきたわけです。
 実は「ダイエット」は成功しなくてもいいんです。(もちろん成功した方が本人としてはいい。)「ダイエット」してる、ということ、あるいは「したい」と考えているという自己確認が大事。「ダイエットなんかしなくてもいいやと。女じゃないっすね」と答えてくれた人がいたけど、そう、「ダイエット」してる・したい(関心を持っている)、ということは「女性である」ということのある種の確認の作業なのだと言えます。
 これは決して「中立的(ニュートラル)な」ものではありません。「どっちでも好きな方をおとりなさい」というものではなく、「こうせよ」という強い要請になっている(力が働いている)という意味で、またダイエットに成功することで大きな報酬(心理的、社会的)が得られるという意味で、まさに政治的な主題であると言えるでしょう。前回の資料、2枚目の裏側なども参考にしてください。
 さて、もう一つ、今回は「階層」の問題を扱います。「階層」というのは、一つないし複数の指標にしたがって垂直方向に分化した社会構造の各層のことを意味します。社会全体の中に設けられた段階的区分のことと言っていいでしょう。似たような「階級」の概念は生産関係からみちびかれるものですが、ここではあまり区別しないで一緒に扱っていきます。(詳細は社会構造論などで。)
 社会学では通常、財産、職業、学歴、所得などを指標とすることが多いようです。単数の指標を取る場合は、所得階層や職業階層などの分類になります。複数の指標を同時に取る場合には、しばしばクラスタ概念が用いられます。
 ここで重要なのは、階層で文化的な行動のパターンが異なるという現象が観察されること。例として、職業階層ごとの音楽の好みや文化行動実行率の違いを見てみました。(ブルデューの『ディスタンクシオン』やSSM調査データより。)来週はどういう意味がこれにあるのかを考察していきましょう。

■第8回(6/12) 文化の政治学・まとめ
 今回は体調が悪くて思うように話ができなくてすいませんでした。でもまあ、きりがいいところまではいったかな。
 お話ししたのは、「趣味を持つ」ということが、階級・階層の境界を人にしめる「ディスタンクシオン」(差別化、卓越化)の権力作用を持つということでした。必ずしも上から下へだけ働くわけではなく、「バイクに乗る」「ルーズソックスをはく」などというようにサブカルチャーと結びついて機能することもあります。いずれにせよそれは、社会の中である種の「亀裂」を人々の間に作り出す(同時にあるまとまりをも作り出しますが)一つの権力行使だというわけです。
 以上講義では、ジェンダーと階層の問題を別々に扱ってきましたが、人はみな何らかの性を持ち、なんらかの階層に属していますので、一人の人としては両方の属性を同時に持っています。(同時に、何らかの年齢階層に属し、何らかの民族集団に属し、障害がある/ない、ということもあり……と続きます。)
 そのため、両者を同時に考えていかなければいけない場面も多々あります。先週の資料の表5などが好例。この表で目立つのが専門・管理職層女性のハイカルチャー志向と、男性の全般で見られる大衆文化志向との対比でしょうか。こうした例については、また別の機会にもお話ししていきたいと思います。

■第9回(6/19) 文化と再生産・序論
 今回は、課題の「日本社会は平等か」について、最初に触れました。一つ一つのレポートについて細かく扱っていくことはできませんので、大まかなパターンに分けて紹介しました。
 特にその中でも、「機会の平等」や「結果の平等」にかかわるところが、講義の内容とつながってきます。
 講義では、佐藤俊樹さんの『不平等社会日本』(中公新書、2000年)を紹介しながら、戦後の日本社会がどのように階層の開放性を高めてきたか、今その開放性が低くなってきているかをざっと紹介しました。開放性が高いということは「機会の平等」につながっていくわけですよね。(「結果の平等」については詳しく触れられませんでしたが、次回簡単に紹介します。)
 階層の開放性が低いということは、言い換えれば階層が再生産される割合が高いということでもあります。この「再生産」ということばが、今回の中心テーマになってきます。そして、社会構造の再生産がどういうふうに文化と関わってくるかについて考えていくことになります。少し前半で時間を取りすぎたので説明不足になりました。次回はもう一度このあたりを復習しながら先へ進みます。

■第10回(6/26) 文化と再生産・家族と教育システム
 前回話したことを、もう一度戦後日本の階層構造とその変動に照らして考えてみると、(1)農業から他部門への大きな移動があった、(2)産業構造の変化にともないホワイトカラーの量的拡大が生じた、というようなことと関連していることがわかります。つまり、戦後一貫して農業部門の人口が絶対的にも相対的にも減り続け、その分他部門が増加したということで、階層の流動性が高まったように見えてきたということ、また量的にホワイトカラー層が増大したので、特にホワイトカラー上層(管理・専門職層)への参入が進んだように見えてきたということ、ただしそれが、団塊の世代で頭打ちになっているということ、ただし実は親と子が同じ職業階層に所属している例が一番多いとSSMからは言えること、と整理できるでしょう。
 講義の後半では、こうしたことがどのようなメカニズムで起きるのかを、いくつかの議論を参照しながら考えてみました。まずは、バーンスティンのいう言語の問題。彼はイギリスの例を取るのですが、労働者階級の家庭で学ぶ言語体系は中産階級の家庭の言語体系と大きく違っており、前者より後者の方が学校で用いられる言語体系により親和性が高いため、労働者階級出身の子どもは学校で成功しにくいことを指摘しています。その結果、労働者階級出身の子どもは学歴資格を必要とするようなホワイトカラー職につきにくくなり、階級構造が世代的に再生産されていく、ということが言えます。
 ブルデューは「ハビトゥス」という概念を用いて同じようなことを説明します。ハビトゥスとは身体化された(深く染みついた)社会的・文化的規範のことですが、家庭生活を通して習得されるハビトゥスは、階級によって異なっていると考えられます。例えばハイカルチャーの享受に必要な美的感覚などは学校教育を通じてよりもむしろ家庭内でのさまざまな経験を通して体得されるものであるため、ハイカルチャーを日常的に消費する階層の出身でないとこうしたハビトゥスを身に付けることができない、ということになったりします。学校文化に適合的なハビトゥスもまた、階層性を持つ(中産階級に特有のもの)であるため、労働者階級家庭で育った子どもはなかなか学校文化となじめないという結果を生じている、と言えるでしょうか。
 ちょっと説明が中途半端なところで終わってしまいました。来週はここを復習して、続けてポール・ウィリスの議論などを紹介していきたいと思います。

■第11回(7/3) 文化と再生産・家族と教育システム(続き)
 今回は前回の続き。バーンスティン、ブルデューなどの議論を参考に、家族と教育システムを通して、文化的再生産が行なわれることを議論してきました。
 大まかに言うと、家族内で継承される文化(言語体系、生活態度、その他)が学校という教育システムのものと適合的な階層とそうでない階層とがあり、社会階層が再生産されていくという結果につながっているということです。
 このとき、教育システムを通じた階層への振り分けは、「学校で成功しなかった」というネガティブな側面だけではなく、むしろ積極的な側面も含んでいることに注意しないといけません。ポール・ウィリスは『ハマータウンの野郎ども』(ちくま学芸文庫)で、このプロセスについて記述しています。「野郎ども」は学校に対するさまざまな「反抗」を行ないますが、それは彼らが自分自身の「自律性」を追求する一環として考えねばなりません。学校で得られる知識をバカにし、先生の言うことをよく聞く〈耳穴っ子〉を軽蔑するのも、学校が象徴する中産階級の価値観・文化とは別な文化=労働者階級の文化への同調の一環なのです。学校側からすれば「反抗」として見えるものは、まさに"Learning to Labour"(ウィリスの著書の原題)で、積極的な意味があるのだということですね。
 しかし、それは結局階層構造や社会全体の価値体系の再生産につながってもいるかもしれません。そのほか、たとえばジェンダーもまた学校や家庭を通して再生産されます。学校は制服、男女別(男子優先)名簿、ふるまいの強制(学校で男女別の「座り方」を教えたり)などのいわゆる「かくれたカリキュラム」を通して、ジェンダーを再生産しようとします。家庭では父・母はそれぞれ成人男女の役割モデルとして子どもたちの前に存在しますし、「ごっこ遊び」などを通じて子どもたちは役割取得を行なったりします。また、精神分析的には、母親が子どもと第一に関わっていることで、男の子は操作的に他者と関わるようになり、女の子は「ケア」に必要な関係的能力を育てやすい(チョドロウ)などの指摘がなされています。
 もちろん、学校が求める「女の子らしさ」に子どもたちが従順に適応するかどうかはこれとは別の話です。でもたとえば、学校が求める「女の子らしさ」の一つの基準としての制服に対して、ルーズソックスはいて、スカート短くして、上にカーディガン羽織って、髪を染めて――いわゆる「着くずし」によって「反抗」しようとしても、実はそういったものもすでに「女子高生モード」と呼ばれる一つのジェンダーの規範への同調行動でしかない、ということも言えます(南條かおる、「女子高校生モードの実証的研究」、福島大学大学院地域科学研究科修士論文、1999年)。反抗/同調という二項対立では語れないようなプロセスがそこにはあるということでしょう。
 講義の中では、かなり「この社会にどのような構造が存在しているか」というような「支配の様式」にかかわる説明が多かったので、ずいぶんと「不自由さ」を印象としてもたれた方も多かったかも知れません。でもむしろ、言いたかったのは「束縛/自由」というような二項対立、あるいは「(束縛する)社会/(自由になりたい)個人」というような二元論ではすまないような問題がいっぱいあるんじゃないかということです。そのあたりについて最後にちょっと蛇足気味に付け加えさせていただきました。文化、社会といったものに関するものの見方が、少しでもこの講義を通じて変わってきたでしょうか。できればいいほうに変わってもらっていたらと思っています。

■第12回(7/10) 特別講義・たとえばレポートはこんなふうに書く

(内容は割愛)



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■講義の感想等
 4/174/24
 5/85/155/225/29
 6/56/126/196/26
 7/37/10

 ※感想の入力は大学院生の佐藤良子さんにお手伝いしてもらっています。

■課題等

  1. 4/17提出分:サウンドスケープ「3分間に聞こえてきた音をすべて書きなさい。」
  2. 5/1提出分:食べ物・飲み物の味比較「飲み物・食べ物を同じ種類のもので二つ選んで味を比較しなさい。用紙はB5、枚数自由(1〜2枚でよい)、提出は行政社会学部棟2階の指定のボックス。提出期限は5月1日(水)の午後4時30分まで。その際、4/24の講義の感想を必ず合わせて記載すること。」
  3. 5/15:ダイエットとエステについて(質問紙形式)
  4. 6/12:日本社会は平等か?(自由記述小レポート、〜6/17)
 

■前期レポート課題(7/10発表)

 「現代文化に関して任意の題材・問題を選択し、前期の講義で紹介された視角・方法・概念装置を一つないし複数用いてレポートを書きなさい。」


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