2001年度講義

ジェンダー論



 トップ  概略  内容  感想等から 

 概略 

【講義のねらい】
 歴史・ジェンダー学修分野の基礎科目の一つとして、ジェンダー/セクシュアリティに関する基礎知識を身につけるとともに、言語、メディア、学校教育、労働、家族といった生活の各領域における具体的な問題を検討します。

【講義概要】

 1 ジェンダー/セクシュアリティの概念

 2 言語・メディア・ジェンダー
 (1)ことばとジェンダー
 (2)メディア文化の中のジェンダー

 3 教育とジェンダー
 (1)教科書の中の性差別
 (2)教室内の相互作用と性別カテゴリー

 4 労働とジェンダー
 (1)女性の労働・男性の労働
 (2)性別職務分離
 (3)セクシュアル・ハラスメント

 5 家族とジェンダー
 (1)「近代家族」とその特質
 (2)現代家族のゆくえ

【使用テキスト・参考文献等】
 井上輝子、『女性学への招待』、有斐閣。
 亀田・舘編、『学校をジェンダーフリーに』、明石書店。
 上野千鶴子、『近代家族の成立と終焉』、岩波書店。
 (以上、主要なもののみ)

【評価方法】
 主に講義終了後の試験またはレポートで判断します。なお、出席は加味しません。

【学生へのメッセージ】
 本講義は行政社会学部の「女性学・ジェンダー研究プログラム」への登録科目です。

※以上、講義要項の記載に準じています。



 トップ  概略  内容  感想等から 

 内容 


■第1回(10/1) イントロダクション

 今回は、本当にほんの入口だけ。この講義は、旧カリ生(3年生以上)にとっては「生活文化論」(通年4単位)の後期にあたるわけですが、2年生にとっては「ジェンダー論」(半期2単位)なので、カリキュラム上の違いや評価の仕方の違いなどについての説明をした後、講義の内容が世界的・歴史的にどのような位置づけを帯びているのか(ちょっとおおげさ)について触れました。あわせて、受講生自身にとってこの講義がどういう位置づけなのか、ということも知りたいので、1回目の感想を書いてもらっています。(提出期限は10月9日。)Webからも投稿ができるようにしてありますので、できるだけそちらをご利用下さい。


■第2回(10/15) 「ジェンダー」という概念

 今日は最初に、前回のリアクションペーパーでいただいたみなさんの考えを紹介いたしました。(下の「感想等から」のリンクで読めます。)まだ提出していない人は、トップページからリンクをはっておきましたので、そちらでどうぞ。
 残りの60分ほどを使って、「ジェンダー」という概念についての話をしていきました。ジェンダー(gender)は一般には「社会的・文化的性差」のことだと説明されます。もちろん生物学的な性差(sex)に対置されている概念なのですが、〈性〉にはもう一つ、セクシュアリティ(sexuality)という相もあります。この3つをここでは、不可分だけれどそれぞれ別なものとして扱っていきます。セクシュアリティの概念についてしっかり触れられませんでした。だいぶ反省。
 なぜジェンダーという概念が必要とされたのか、この概念を使うことでどんな意味があるのか、などについて話した後で、「でも、ジェンダーとセックスってほんとに区別できるの?」という話題に。分けた後でそれをひっくり返すような話の流れだったので、ちょっと戸惑ったかも。ポスト構造主義派の議論をいくつか紹介させていただきました。
 最後ちょっと時間が足りなかったんですが、加藤秀一さんが『性現象論』(勁草書房、1998年)であげている例を借りて、なんでこんなくどくどしい話が必要なのか、というところを補足しました。生物学的な性差を借りて社会的性差を根拠づけるというレトリックは今でもふつうにされています。そのあたりの見極めのためにも必要なんだよ、ということでした。加藤さんは性的差異(gender difference)と性役割(gender role)の不用意な連結の例としてあげているんですけどね。
 今日の講義について、いただいた感想は順次公開しますので、下の「感想等から」のリンクをたどってください。


■第3回(10/22) ことばとジェンダー

 最初にいただいた感想などから少し抜粋してコメント。先週は少なかった。やっぱり、強制的にその場で書かせるぐらいでないとみなさん書きませんか? あと、日曜にメールサーバが停まっていたみたいで、その間の感想が受け取れていません。無くなったものがないかどうか調べていますが、戻ってきてしまったというものがあったら、お手数ですが再送して下さい。
 さて今週は、前回の内容に少し補足するところから。ジェンダーは「分割」なわけですが、分けてどうするか・どうなるかというと、分けることはこの場合ニュートラルな行為ではなく、通常は男性に社会の中で中心的な・支配的な価値を、女性に周辺的で低い価値を与えるような価値体系への組み込みをともなっているわけです。通常それは「女性差別」などと呼ばれますが、この講義では一貫して「性差別」という語をあてていきます。性差別はジェンダーバイアス等々社会的公正をいろんな点で欠くからこそ問題なわけで、「分けてもいいんじゃないか」と言ってしまう前にこのことを考えてほしいと思います。(一度自分で書いたことを講義で聞いた概念を使って分析してもらうといいと思います。)>感想でいろいろいただいた方々
 じゃあどういう社会的不公正があるか、をこれから考えていくことになるわけですが、最初は、毎日みんなが使っている「ことば」について。ことば(言語)の問題というと、よく些末だとか重箱の隅だとか「言葉狩りだ」とかいう人がいるんですけど、決して些末でも重箱の隅でもないし、「言葉狩り」の意味をきちんと理解していたらそうじゃないことはすぐわかると思うので、みなさん落ち着いた議論をしていきましょう。今日は、言語が、世界をわたしたちが理解し、自己の意識を形作るときの根本にあるものであって、言語の中の問題点を理解することでわたしたちが世界をどういうものとして受け取っているかがある程度わかる、ということを確認して、次の4点を問題点として指摘しました。
 (1)有徴化:「女性議員」「女流作家」など
 (2)排除 :「父兄」「青年」など
 (3)非対称:「女子大生」「紳士的」など対語がないもの
 (4)ステレオタイプ:「男勝り」等の慣用句、「主婦作家」「大黒柱」等
 実際に例を探してもらうのがよいかと思うので、新聞・雑誌・書籍・テレビなどから探してメールで送ってください(出典明記のこと。)。もちろん、講義への感想も待ってます。


■第4回(10/29) メディア文化の中のジェンダー

 課題提出者はわずかに25名、しかも日曜日の期限までに提出した人は17名でした。ちょっと少ないと思います。きちんと講義に「参加」するためには、こういった作業もしていただきたいです。もちろん毎週は無理なんだろうけど、半分ぐらいはねー。
 ということで、先週の課題への提出を整理するところからスタート。(1)有徴化の例としては「女神」「女性レーサー」などが、(2)排除の例では「兄弟」(「ご兄弟は何人?」と訊くときなどの)が、(3)非対称の例では敬称の「女史」など、(4)ステレオタイプでは子どもを妊娠することができないでいる女性に対する「不妊主婦」というレッテルなどがありました。単語としてだけではなく、文脈で判断しなければいけないものなどもありましたね。
 こうしたいわゆる「性差別語」には、以前に話した内容と絡めて言うと、(1)必要でないときは性別カテゴリーを持ち出さない、(3)性別カテゴリーを援用する場合には、不均整にならないような配慮をした上で用いる。また、そういう社会的合意を形成する努力をする、というような対応をしていく必要があります。ただし同時に、(2)歴史的に見て不公正の是正に資するような性別カテゴリーの援用まで抑制する必要は必ずしもない、ということも念頭に置いておくべき。(※(1)〜(3)の数字は、順番を無視して、以前お話ししたときの数字にしてあります。)つまり、伝統的に男性中心主義が支配してきた領域でバランスを取るために「女性〜」を使うことまで否定する必要はない、ということです。「女性映画祭」「女性音楽祭」などがそうですね。「女性学」というような言い方もそうでしょうか。
 ここまで考えてくると、最近時々男子学生層に反発する人が多いように見受けられる「レディス・デイ」「レディス・ランチ」等も、実は男性中心主義が根本にあることから来る命名だ、ということがわかるでしょう。つまり、「レディス」とつかないランチは誰が食べるように考えられているのか、ということ。「お子さまランチ」と同じですね。「お子さま」とつかないものは、要は大人向けのものとして作られているわけで、「レディス」とつかないものの場合は、「男性が食べるもの」として作られている、ということです。もちろんこのことは、実際には「レディス」とつかないランチを女性も食べていることや、意識して男性向けに作っているわけではない、といったことと矛盾しません。あわせて、なぜ反発が男子学生層で多いのかということについてもお話ししました。
 続いて(2)メディア文化の中のジェンダーについて。まず今週は、大まかに(1)メディア組織のジェンダー・バイアスと(2)メディアへのアクセスの問題、および(3)メッセージのジェンダー・バイアスについてお話ししました。特にこの講義では(3)に焦点を当てるわけですが、メッセージには明示的・顕示的なものと暗黙のもの・かくされたものの二つがあることをまず指摘しておきました。「かくれたメッセージ」とは、言葉としては発せられていなくても、映像や場面、人の選択などによって暗黙の内に含意されている内容のことです。CMを例に(時間がなかったので早口&短時間でしたが)このことについてお話ししました。ということで今週の課題は、テレビのCMの中のジェンダーに関するかくれたメッセージを探してみる、ということにします。講義の感想も合わせて送ってください。


■第5回(11/5) メディア文化の中のジェンダー〜「紅一点論」

 今日の話は「出されている課題は評価されないのか」という質問に答えることからスタート。課題はあくまでも学習の補助であり、講義で語られたことが自分の生活の中で触れる事柄とどうかかわっているのかを実地で学ぶチャンスをみなさんに経験してほしいということから行なっている指示に過ぎません。もうちょっと多くの人が提出してくれればいいと思いますが、基本的にボランタリーなもの。やってみたいという人がやればいいと思っています。ただし、そうやって基礎訓練していないでいきなり最後の場面の評価でしくじっても、それはわたしの責任でないからねっ。
 さて、少ないながらもいただいたCMの例からわかってきたこと。それは、1)性別分業の固定的イメージ、2)「幸せ家族」の固定的イメージ、3)女性の身体をアイキャッチとして(しばしばセクシュアルに)使うものが多い、ということでした。ほかにも「女性=自然」のようなCMや、「紅一点」(男の友情を確認しているような情景の中に、何故か女性が一人だけいる、というような)のようなものもあるんじゃないかな、と思います。
 話が出たついでに、というにはあまりにも長い時間をかけましたが、ついでということで、斎藤美奈子さんの『紅一点論』にも触れました。1960年代から80年代までのアニメ・特撮の番組(男の子向け)の中で、女性の席は1つしかないこと、しかも「地球を守る」なんていうエリート集団の中に加わっている女性であるのに、やってることは「電話番」だったり「セクハラ要員」だったり、とサエないことおびただしい。そういうお話でした。ただ、みなさんにはなじみがない番組が多いかな、と思ったので、90年代についてわたしなりに(斎藤さんと重なりつつずれているように)まとめた話もさせていただきました。(「戦う女の子」たちの時代、という観点から。)
 次回は教育の話。感想は同じく待っています。自分の好きなマンガやアニメの話もね。


■第6回(11/12) 教育とジェンダー:教科書の中の性差別

 今日はまず「学校は平等、か?」という問いから入りました。確かに世論調査をすると、学校は「男女で平等である」という回答が多い(全国で約3分の2、福島でも6割弱)んだけど、それだけに社会のその他の領域(政治・家庭・職場・慣習等)の領域での「男性が優位」という回答の多さとの差が目立ちます。もし、社会のその他の領域で男性優位であるなら、なぜ学校がこうも「平等」なのか、あるいは「平等」と受け取られているのか、ということを考えてみないといけません。
 ところでまず、学校は教職員にとっては「職場」です。そうすると、社会の中の「職場」についていえることがあてはまってしまうかもしれない。(公立学校の場合は、制度的な差別はほぼないんでしょうが。)実際、たとえば女性教員の数を調べてみると、幼稚園・小学校低学年に集中していて、高校や大学にはすごく少ないことがわかります。また、管理職(校長・教頭)もあまりいない。そうすると職場としての学校の中での発言力も全体として低いということになります。教科ごとの偏りもありますね。(配付資料参照。)
 また、子どもは家庭から学校に通っていることはほとんどなわけですが、親は子供の教育についてどう思っているのか。子どもが男の子・女の子で「大学まで」と思っている親の割合はかなり違います。(男の子には7割、女の子には4割ぐらいの親が「大学まで」と考えている。)その理由も、職業に関連すること(「就職に有利」など)を男の子については重視し、女の子ではかわって「幸せな結婚のため」という理由が「短大まで」を希望する親で目立ちます。(資料は主に、『女性のデータブック』の第3版から取っています。)
 こうした環境で教育を受ける子どもたちが何の影響もなく、ジェンダーに中立的に育てられる、わけはないのはほんとに当たり前で、四年制大学への進学率には相当な違いがあるし、得意な教科・不得意な教科にも違いが出てきています。
 なのになんで、みんな学校は平等だと考えるのか? というと、これはやはり「できる子がえらい」「成績がよければいい学校に行ける」というような「業績原理」が強く存在している、ということが言えるのではないでしょうか。特に大学生に訊く場合は、みんな業績原理に則って業績をあげ、評価されてきた人たちなわけですから、そっちに強く傾いた答えにもなるんでしょう。要は、学校には「業績原理」と「性別原理」の2つの力が、それぞれ強く働いていて、性別や出身階層、地域、学力などによって、どっちに強く引っ張られるかが変わってくるのではないでしょうか。
 と、ここまでは前置き。(長い。)
 さて、学校の中の性別原理、どのように生徒・学生たちに突きつけられているか、ということを考えるために、便利な概念を一つ導入しておきます。「かくれたカリキュラム」です。普通カリキュラムというと、英語、数学というような「教科」や、英語の中の「主語・述語」「動詞」なんていう内容の並びのことを指すわけです。学校ではそういうカリキュラムを教えることになっているんですが、実はそれ以外のことも教えているんじゃないか、というのが「かくれたカリキュラム」という概念の意味。人種や民族、性別、セクシュアリティ、などについての隠されたメッセージがあるのではないかという考え方です。
 さらにここでは、「明示的なかくれたカリキュラム(形が見えるもの)」「黙示的なかくれたカリキュラム(見えにくいもの)」という最近の分類も合わせて考えます。
 教科書の問題は、前者の「明示的なかくれたカリキュラム」の典型。アメリカでは70年代前半にチェックが進み、教科書会社はガイドラインも作って対応したそうですが、日本ではどうでしょうか。いくつかの例に見るように、80年代、90年代にもまだ「かくれたカリキュラム」としての性差別メッセージは色濃いようです。福島の小学校1年生で使われている国語の教科書を分析した安斎美佳さんによると、(1)男の子が主役の話が多い、最近は割合は減ったが、動物を擬人化したものまで含めると相当数残っている、(2)イラストを見ると、女の子は赤系の服でスカート、男の子は青・黒などで半ズボン、(3)登場する成人女性は母親か教員か店員が主で、男性の職業の幅の広さと比べると非常に狭い、(4)著者は男性がほとんど、というようなジェンダー・バイアスがあるようです。(安斎、「教科書における男女の描かれ方の違いについて」、福島大学行政社会学部卒業論文、1999年。)特定の男女のイメージや性別役割分業を肯定し、強化するメッセージを発している、ということですね。
 来週は「黙示的なかくれたカリキュラム」の話をします。感想と合わせて、みなさんがこれまでの学校教育の中で感じたジェンダーに関わる「?」も募集しますんで、お願いします。


■第7回(11/19) 教育とジェンダー:教室内の相互作用

 最初は前回、前々回の感想について触れました。感想はもっとほしいんですが、「いい感想」「質の高い感想」がほしい、というのが本音。素朴な疑問どころか、ちょっと考えればわかることや、明らかに矛盾していることなんかはちょっとね。
 さて、今日は「かくれたカリキュラム」についての後半部分、教室内での相互作用(生徒間、生徒−教員間)の問題を扱いました。(1)まずは量の問題。なぜか教室内(授業中)では、男子の発言が多く、また教員も男子を中心に扱ってしまう、ということがあるようです。生徒のほうはそういう「かくれたカリキュラム」をある程度理解している、ということも調査データで明らかになりました。(木村涼子さんの『学校文化とジェンダー』なんかから。)(2)それから、質的な相違もありました。男子には厳しく・女子には甘く、というような叱り方の差異。(3)もう一つ、性別カテゴリーの多用とその際にジェンダーのステレオタイプを動員するということ。力仕事の時に、「おい、男子3人、ちょっと手伝え」とか、「女の子、だれかやってくれないか」とか。
 これは教員だけの問題ではなくて、相互作用(interaction)だから生徒の側にあるジェンダーに関わる意識や態度なども関係してきます。教員ができるだけ男女を均等に宛てようとしていても、男の子しか手を挙げないものだから、しょうがなく男の子を指名していたりもするようです。でも、結果的には教室におけるジェンダー秩序の再生産をしてしまう。どういうふうにここに介入していく手段を考えるのかは、今後の課題でしょう。
 最後に、いわゆる「ジェンダーフリー教育」についても触れました。第4回のところで書いたような3つの原則(不要な性別カテゴリーを使わない、ただし現在・過去の不公正是正に視するような性別カテゴリーの援用まで抑制するべきではない、性別カテゴリーを使うときは各性別が均等な扱いになるように使う)はここでも同じように適用できるはず。ただしその中で、「男女平等“を”教える」教育としての「ジェンダーフリー教育」と「男女平等“に”教える」教育としての「ジェンダーフリー教育」の両方が必要なんじゃないか、とわたしは考えます。


■第8回(11/26) 中間まとめ&労働とジェンダー(1)女性労働の現在

 今日はちょうど内容的に中間折り返し地点なので、これまでのまとめから。「ジェンダー」ということばとその意味、具体的にふれてきたことがらの再確認などを中心に進めました。
 プラスおまけで時事ネタということで、福島県の男女共同参画条例制定の進行状況についての新聞記事の比較(福島民報と福島民友)などをやってみました。メディアがどこに注目しているかということが、けっこう記事に反映されるってことがわかったでしょうか。条例案の中で、民報が農村や相談機能などに焦点を合わせているのに対して、民友は女性への暴力などについての内容や名称(「男女平等参画条例」という名称が望ましい、という答申がありました)に注目をしていました。
 そのあと、「実習」と「予習」をかねて、新聞の折り込み求人広告(北多摩版および福島県北版)の女性/男性イメージの検討をしていただきました。詳細は触れませんが、いろいろ出ましたね。
 さて、そのあとに次のテーマ「労働」に入りました。今日は女性・男性の労働の現状について。(まず基本的な事項の確認から。)といっても、実際は女性の労働の話が中心でした。
 「女性の社会進出」と言われるけれど、じゃあ女は働いてこなかったのか、というと、決してそうではありません。近代以前から女性はずっと生産労働も再生産労働もしてきました。もちろん男性も同じこと。「男の仕事」「女の仕事」はあったようですが。
 近代以降も農村でも工場(女工)でも、そして家の中でも(女中)、女性は働いてきたのですが、日本だと20世紀の初め頃から「主婦」という存在がにわかに脚光を浴びてきます。戦前はまだまだ少なかった主婦も、高度経済成長期を経て社会の中心的モデルになってきました。だからこそ、その後女性が仕事に出るようになって、わざわざ「社会進出」なんて言われているわけです。つまりは一端引っ込んだと思われたから。引っ込んだのが「当たり前」と思われたから。
 現在の状況としては、(1)女性雇用者はパートを中心に増大している、(2)派遣労働や、契約社員、準社員など、多様な周辺的雇用形態が増えていく中でそこに女性が多く加わっている、(3)男性との賃金格差が大きい、特に30代以降、(4)フルタイム女性の総労働時間(雇用労働時間+家事労働時間)が世界でも群を抜いて長い、というようなことをデータに基づいて確認してきました。ただし、均等法やその他の要因で、基幹労働力としても女性は活躍するようになってきています。要するに、平等化やグローバル化というような中での再構造化(リストラクチャリング)により、新たなジェンダー化が労働に関して作られてきている、というわけ。
 次回は(次回こそは)性別職務分離の話に入ります。今日の資料をなくさないようにしておいてください。


■第9回(12/3) 性別職務分離

 まず「性別職務分離」、なんでこんな概念を使うのかというところの説明から入りました。要は、労働社会学において(はたまた一般の認識においてもそうだと思うけれど)女性と男性の労働者を、前者については家庭責任との関係でのみとらえ、後者を職場内の力学のみでとらえるというアンバランスがあるから、ということでしょうか。結局は男性労働者があくまでも考察の中心にあり、女性労働者はそこからの偏差としてとらえられているということでしょう。ヴェロニカ・ビーチィがこうした傾向に対して、(1)まず調査をする場合に両性の労働者に等しく適用できるような項目を立ててそれに基づいて調査を行なうこと、(2)労働現場における両性の権力関係を安易に家族関係とのアナロジーでとらえないこと、の2つを提唱しています。(『現代フェミニズムと労働』中央大学出版部)
 次にデータを元に(配布資料参照)マクロな性別職務分離の状況を見てみました。性別職務分離には「水平的分離」(男性職、女性職というようなこと)と「垂直的分離」(職階の上位に男性が多く、下位に女性が多いこと)の2つの側面があるわけですが、ここでは主に前者が見えてきます。垂直的分離の例は先日の学校教員のような例もあります。
 マクロなアプローチだけでなく、ミクロなアプローチもということで、今回は木本喜美子さんの「性別職務分離と女性労働者」(『「企業社会」の中の女性労働者』、日本労働社会学会年報、1995年)を取り上げてみました。百貨店という伝統的に女性労働者が多い職場の調査がもとになっているわけですが、早くから性別・学歴によらない昇進システムを導入し、実際に女性の管理職も登場しているわりには、一定程度以上の昇進が見られない(具体的には課長クラス以上の昇進がほとんどない、係長クラスでも2割弱で頭打ち)というような状況がなぜ起こるのかを、職場内の性別職務分離に原因を求めた研究です。
 詳細はWebでは省略(講義ではちゃんと解説しています、念のため)。必要ならば改めて論文を読んでいただきたいと思います。(とはいえ、年報のこの巻はなぜか福島大学の図書館には入っていませんね。←今気がついた。)つまりは、学歴不問といいながら男性は基本的に大卒、女性は高・短大・専門学校卒でほとんどが採用されており、さらに主に性別で職域や裁量権の範囲が大きく異なっていることが、結局働き方や昇進を左右してしまっているということなわけです。
 最近「昇進拒む総合職」という記事が日経に出ましたが、個々の女性の意識にだけ還元して考えるのではなく、こうした職場内教育(OJT)や慣行などのありかたなども見なおしてみる必要があるということでしょう。


■第10回(12/10) セクシュアル・ハラスメント

 「セクハラ」という言葉はよく知られているけど、その中身をきちんと理解してみんな使っているかというとそうでもないかも知れない。ということで、最初に「理解度チェック」をやっていただきました。「次の中からセクシュアル・ハラスメントとすることができないものに○をつけなさい。」というもの。(質問紙は省略。)
 大雑杷に言うと、セクシュアル・ハラスメントとは、「物理的強制力以外の理由によって離脱が不可能または困難な状況下で、性的に不快な言動にさらされること」を言うものです。(物理的に不可能なら強姦や強制猥褻などになります。)つまり職場や学校など、職業上の不利益(失職、減給、仕事がしづらくなる、など)や教育上の不利益(単位を落とす、指導拒否、雰囲気をこわす、その他)のために、離脱が不可能もしくは困難になる状況が想定されているわけです。通常はさらに対価型(もしくは地位利用型)・環境型の二つのタイプに分けられますが、同時に生じる場合もあります。このへんは資料として配った「福島大学の学生に対するセクシュアル・ハラスメントに関する指針」も参照して下さい。
 なぜセクシュアル・ハラスメントというような概念が必要とされたのか、大学のセクシュアル・ハラスメントの特質とは何か、なども解説しましたが、もう一つ時間をとってお話ししたのは、「将来(現在もか?)セクシュアル・ハラスメントに直面したらどうするか」ということについて。これは、(1)被害者になってしまった、(2)相談された、(3)加害者だと言われた、という3つの場合があり得ます。
 (1)不幸にも被害者になってしまった場合、まず「とりあえず逃げる」ことも大事です。「逃げちゃだめだ」なんて言ってないで、被害に遭わないためにはその場から離れることも必要。意思表示にもなりますし。次には「自分を責めない」ということ。得てして性被害に遭った人は、自分に落ち度があったのではないかと思いがちなんですが、セクハラは「やるやつが悪い」のです。そう自分に言い聞かせて下さい。
 深刻になるようだったら、「味方を作っておく」ことが重要になります。この味方は、相談相手であり、証人でもあります。(両方いっぺんであることもあるかも。)もちろん「どうしたいか決めるのは自分」なんですが、決める際の相談をしたり、心の支えになってもらったり、信頼できる人を味方にしておくと頼もしい限りです。逆に、信頼できるかどうかはよく吟味すること。いつも仲のいい友だちだから、といっても、こういうことを一緒に考えるには適さない人もいるかもしれない。そのへんの見極めをしっかりと。
 さて、「どうしたいか」心が決まったら、「窓口に相談する」こともあり得るでしょう。特に、機関による処分などを求めたい場合は。ただ、大学や職場の窓口が常に信頼が置けるかどうか、あるいは自分と相性がいいかどうかはわかりません。これも見極めが大事です。時には弁護士やその他の機関などへの相談が有効なときもあります。弁護士に相談したから即訴訟、というわけではありません。ベストな解決は個々さまざまですので、実績があるところでアドバイスを受けることは大事です。
 (2)知り合いなどから相談を受けた場合。被害者はたいていせっぱつまって、自分の周囲の信頼できそうな人を頼ってくるものです。相談を受けたということは、あなたが信頼されたということ。その信頼を裏切らないという心構えが、まずは一番大事なことです。
 そして、相手の「話を聞く」ことにつとめましょう。被害者は時として混乱しているので、その混乱を鎮め、何が起こったのかを本人がちゃんと認識できるよう、くりかえし話を聞くことで手助けをしてあげることが必要です。相手を責めたりしてはいけません。
 また、他の人や公的機関や弁護士など相談したりするときは、「本人の意見を尊重」しないといけません。相手が望んでいないことを勝手にやらない。たとえそれが善意からのものであっても。
 それと、「あまり多くを背負い込みすぎない」ことです。自分でできることはここまで、ということをはっきりと相手に伝えよう。相談には乗れるけど、証人にはなれない、など。
 (3)さて、これまた「不幸」にも、加害者だと言われた場合。たとえ身に覚えがなくても、「怒ってはいけない」。(身に覚えがあるような人はここでは想定していません。論外ってことね。)怒ったら問題がこじれるだけ。まずは冷静に、自分のしたどういうことが「セクシュアル・ハラスメント」だと相手が受け取ったのかを、「確認する」ことです。その上で、納得がいったら「素直に謝る」、そして「繰り返さない」、この3点セットを忘れないようにしましょう(わたしも)。
 あと、常日頃から自分がどういう立場にいて、どういう権力を周囲に及ぼしているのか、そのことに自覚的であることが、セクシュアル・ハラスメントをしないためには重要です。とにかく、一番いいのは「セクハラしない」ことですから。


■第11回(12/17) 〈近代家族〉とはなにか

 1980年代頃から「家族の危機」とよく言われるようになりました。家族内の結びつきが弱体化しているとか、妻・子・夫というような家族の成員それぞれにいろいろなかたちでの「病み」が出ているというようなことが、主にジャーナリズムを中心に事例紹介の形でメディアに登場したのが80年以降のことです。しかし、家族社会学者たちはマクロデータを参照しながら、離婚率も非嫡出子(婚外子)の出生率も若年者の犯罪件数も日本は低い、むしろ「健全」なのではないかとこれに反論しました。
 どっちが正しいのでしょうか? ここでは、1)家族のかかえている矛盾はマクロデータには表れないこともある(「家庭内離婚」が多い日本では、法的に離婚しない夫婦でも実際は破綻している)、2)「一部家族の病理」とされていることは実はどの家族にも共通する問題をはらんでいる、という観点にたって、しかし、3)「家族なるもの」の全否定に向かっているわけではない、という視点で問題を見ていきたいと思います。つまり、「危機に瀕しているのはある特定のタイプの家族のある特定の特性である」というふうに問題を見ていこうというわけです。
 このとき、「ある特定のタイプの家族」とは、通常〈近代家族〉と呼ばれるものです。これは社会史の領域で、近代以前の社会には現在見られるような家族とは異なった種類の家族が存在していたことが“発見”されたことと関連しています。つまり、わたしたちが慣れ親しんでいる種類の家族は歴史的・社会的に非常に特殊な種類のものだ、ということです。
 〈近代家族〉は、大まかに言って、(1)「公/私」の分離と性別分業、(2)強い情緒的紐帯と「子ども中心主義」、(3)閉鎖的少子核家族、というような特徴を持っています。日本ではこういう家族は、歴史的には20世紀の初め頃(明治の終わりから大正にかけて)出現してきたと言われています。
 今週は時間がなかったので、上の(1)のところしか説明できませんでした。次回は(2)(3)についてお話ししてみたいと思います。


■第12回(1/21) 日本における〈近代家族〉の登場と拡大

 今回は前回からの続きで、日本における〈近代家族〉について、その形態や規範の特徴を説明していきました。時間がなくて、いわゆる家制度との関係や、規範と実態のズレの話などについて舌足らずになってしまったのが反省点。来年度は考えなければなりませんね。


■第13回(1/28) 現代家族のゆくえ

 最初に江原由美子さんたちの『ジェンダーの社会学』(新曜社、1989年)の100ページに出てくる「家族の範囲」をやってもらいました。
 これは別に正解があるものではないのですが、自分の答えや『ジェンダーの社会学』に出ている長野県での調査結果などを参照してみると、「人々が“家族”と見なす範囲というのはかなり広く、人によりまちまちである」ということがわかると思います。近年の傾向として、家族を扱う社会科学の領域でも定義を客観的・一般的に厳密にするよりは、「人々がなにを“家族”と考えるか」という「家族の主観的定義」を採用する場合が増えてきているのは、こういう現状(以前からかもしれませんが)を踏まえてのこととされています。
 上野千鶴子さんたちが1990年頃に行なった「ファミリー・アイデンティティに関する調査」でも、こうしたさまざまな「主観的定義」が明らかになりました。特に、家族成員間での相違なども注目に値するところでしょう。夫と妻とで、親と子どもとで、“家族”とするものの範囲が異なることがあり得るわけです。
 これから家族はどうなっていくのか? 答えがあるわけではないでしょうが、おそらくは一つのタイプの家族がヘゲモニーをにぎり、それを国家が特権的に承認するというありかたからは、どうやら離れていきそうだと言えるかも知れません。(やや楽観気味。)あるいは、ライフステージの移行に伴ってさまざまな家族の形態を経験する、ということもあり得るかも知れません。
 しかしそういう社会になるには、社会制度やその他のさまざまな〈知〉の形態の変容が必要とされてくるでしょう。よく言われているのは年金や税金の制度のあり方ですし、名前(氏姓)についてもそうでしょう。家屋のあり方だって関係しているかも知れません。いわゆる(n-1)DK(※nは家族成員数)がこれまで都市型家屋の一つのモデルでしたが、これは1〜2人の子どもに個室を、夫婦は同室、という性別役割分業を前提としたヘテロセクシュアルなカップルとその子どもからなる小規模核家族が住まうことを想定したものです。こうした家屋(マンションを含みます)が高度経済成長期以降大量に供給されてきたわけですが、ここにおさまらない規範や形態を持つ家族がはたしてこうした家屋で満足できるかどうかは疑問です。
 この講義「ジェンダー論」は、1996年カリキュラムの「生活文化論」でもあるわけですが、こうした「生活文化」の側面からも家族やジェンダーの問題を考えていく必要もあると言えます。「これからどういう家族を作りたいと思いますか?」という問いへの答えは、みなさん一人一人が考えて下さい。


■2001年度の試験問題はこちら。(試験実施・2002年2月4日)



 トップ  概略  内容  感想等から 

 感想等から 

リアクション・ペーパー(01/10/01)
 Q1 (2年生のみ)あなたがこの講義を受講した理由はなんですか/Q2 講義のテーマの中で一番興味があるものはなんですか/Q3 その他ジェンダー、セクシュアリティ関係で、ふだん生活していて感じること・気になっていることを何でも書いて下さい

■講義の感想等
 10月15日分
 10月22日分
 10月29日分
 11月 5日分
 11月12日分
 11月26日分

■課題等
 10月22日・いわゆる「性差別語」を探す
 10月29日・テレビCMウォッチング
 11月26日・新聞折り込み求人広告のチェック
 12月10日・セクシュアル・ハラスメントにならないのはどの場合?
  1月28日・家族の範囲はどこまで?


 トップ  概略  内容  感想等から 


「仕事」のページへ
Copyright (c) 2001-2002, TAKAHASHI, June. All rights reserved.
(june.takahashi@nifty.ne.jp)