「自分を・語る・ことば」――〈個〉に根ざす運動の姿                                高橋 準 一 問題の所在  社会運動は通常、「制度変革」を目指す集合的行為として定義され、運動の社会学 的分析も、主にこの側面に力点が注がれている。  たとえば、マリオ・ダイアーニは、集合行為論、資源動員論、政治過程論、「新し い社会運動」論などの各アプローチを総括しながら、社会運動の概念を、(1)イン フォーマルな相互作用のネットワーク、(2)共有された信念と連帯、(3)闘争の 主題についての集合的行為、(4)非制度的・非ルーチン的行為、という四つの論点 に集約させてまとめている(1)。また、栗田宣義は、 社会運動を構成する三つの論理 として、集合的主体性・異議申し立て・反制度的行為をあげる。社会運動は、これら 三つの論理の積としての「集合行為」と考えられている(2)。  このような社会運動のとらえ方は、アカデミズムの内だけでなく、その外部でもご く一般的である。しかし、こうしたアプローチのみでは十分に考察できない運動の側 面が存在する。それは、一つは運動の担い手にかかわる側面である。特に、今日主流 を占めている社会運動、「新しい社会運動」(具体的には、エコロジー運動、女性解 放運動・フェミニズム、障害者運動、エスニック・リバイバル運動、など)は、石川 准が指摘するように、「自己変革」の側面が強い種類の運動である(3)。 社会運動参 加者の「自己変革」の問題は、社会運動を「制度に働きかける集合的行為」として考 察するのではなく、「運動参加者自身への働きかけ」というフレームの中でとらえる ことによって回答が可能になる。「制度変革」志向以外の社会運動は、これまで「表 出的行為」あるいは「社会運動のコンサマトリーな型」という形でとらえられること が多かったが、おそらくそれだけではとらえられない側面がある。それが、「自己変 革」志向なのである。  もう一つは、社会運動は、はっきりした形を持った「構造」としてはとらえられな い、ということである。特に、運動が立ち上がる過程で顕著になることであるが、何 が運動であるのか、何が運動の目的であるのか、運動の取る戦略・戦術はどのような ものなのか、といったことは、はっきりと固定されているわけではない。社会運動論 のある種の議論は、運動の境界・運動の目的の性質・戦略や戦術のあり方が、ある程 度自明のものとして存在しているような前提をおいているが(特に、資源動員論アプ ローチの一部。そこでは、社会運動ははっきりとした境界づけをされて、運動の「外 部」から「内部」へと資源を調達するというパラダイムの中で認識される)、現実に 存在している社会運動の境界・目的・戦略等々は、決して自明なものでなく、運動が おかれた環境によって歴史的・社会的に決定されてきたものである。ただし現実には、 各々の社会運動は、先行する運動を参照することで、運動のスタイルや目的などを踏 襲してきた。したがって運動は、ある側面では先行する運動に学びながら自らの活動 をポジティヴに展開することができている。しかし、ある側面では、こうした先行例 の参照は、運動にとっての拘束となっているのである。社会運動論は、この両側面に 注目しなければならない。運動のスタイルや目的を自明と考えることは、取るべき途 ではない。なぜならそのことによって、運動が立ち上がる瞬間のダイナミズムを見落 としてしまうからだ。言い換えるならば、何が運動で、何が運動でないのか、という 「社会運動」のカテゴリーそのものに関する問いを、成立不可能にしてしまうからだ。  以上のような、「自己変革」志向へのよりいっそうの着目、および、社会運動とそ れにまつわるさまざまのカテゴリーの問いなおしが、社会運動論の領域で現在必要に なってきているように思われる。  本稿は、この二つの論点に向けての試みとして、自己にかかわる運動として現れる 「自分を・語る・ことば」を取上げ、その特質と意義を考察してみたい。そして、そ のことを通じて、社会運動論の中でしばしば欠落してしまう「自己変革」志向の側面 に光をあて、加えて、社会運動の境界についての若干の議論を行ないたい。 二 「自分を・語る・ことば」  ここで「自分を・語る・ことば」とは、最広義には、「自己について言及する言語 行為」、そのすべてを意味する。  したがって、「自分を・語る・ことば」は、もっともプリミティブな形としては、 愚痴・ぼやき・口げんかなどの表現形態を取ることもある。 ただ、 本稿で取り扱う 「ことば」は、後に述べるような影響力を持つための特性が、強く、かつ凝縮された 形で現れているもの、かつ(きわめてプラクティカルな理由で)比較的入手が容易な 「書かれたもの」、すなわち公開された文献・データに限定する。  次の三つの「ことば」が、本稿の具体的な検討対象である。  a.田中美津、『いのちの女たちへ――とり乱しウーマン・リブ論』、田畑書店、 一九七二年。(文庫版:河出文庫、一九九二年。本稿の引用頁は文庫版に依拠してい る。)  b.掛札悠子、『「レズビアン」である、ということ』、河出書房新社、一九九二 年。  c.Cookie、 「わたしの “ふぇみにずむ”」、 一〜六〇、 NIFTYー Serve、生涯学習フォーラムデータライブラリ、一九九二ー一九九三年。(引用 は連載の回数で示す。)  それぞれについて若干のコメントを加えておく。  aは、日本のウーマンリブ運動(以下単に「リブ運動」)の中で書かれたもの。田 中美津自身は、東京の女性たちの活動の一つの拠点ともなっていた「新宿リブセンタ ー」の中心メンバーであり、運動の中で重要な位置を占めていた。その彼女が一九七 二年に発表した『いのちの女たちへ』は、数多くの女性たちに読まれ、今回取上げる 三つの「ことば」のなかでも、もっとも大きな社会的影響を持ったものであり、文庫 版が出た今日も女性を中心に広い読者を得ている(4)。  bの著者は、女性の同性愛者(レズビアン)であり、それを知人・世間に向かって 「公言(coming out)する」過程でこの「ことば」は書かれている。aが、一九六〇 年代末の学園闘争・市民運動の影響を色濃く残し(田中自身、ベトナム平和運動など に深く関与した経歴を持つ)、用語・語調などにも影響が見られるのに対し、bはか なり文章の調子が異なる。「運動」というイメージとは多少離れた、静謐な印象を与 える文章である。  cは、a・bとは性質が異なるため、やや詳しく述べておく必要があるだろう。こ れは商業コンピュータ通信ネットワークであるNIFTYーServeの「現代思想 フォーラム」の一会議室上で発表されたもので、通常の出版物ではない。ちなみに、 筆者名「Cookie」は本名ではなく、ネットワーク上での筆名(ハンドル名と呼 ばれる)である。  コンピュータ通信というメディアの性質上、誰でも読むことのできる種類のデータ ではないが、その影響力は必ずしも過小評価できない。このフォーラムには、発表当 時三千人台から四千人台の会員がおり、さらに発表された会議室(「フェミニズムの 部屋」、のちに「"feminism(human & sexuality)"」) をその全てがアクセスしてい たわけではないことは考慮しても、常時数百人の目には触れたであろう(5)。  また、いく人かのフォーラムの会員は、彼女の発言に対する返事(response)を出 しており、それに対する彼女の答えもまた発せられている。したがって、この「こと ば」に関しては、読み手とのより相互作用的な関係の中で書かれており、また、一度 に発表されているのではなく、書かれたその都度の発表になっていることに注意して おく必要がある。これは、「自分を・語る」過程にさまざまに他者がかかわっている ことが、よりはっきりと見えている例である。  したがってcの例は、会話(特にコンシャスネス・レイジングなどの、しばしば運 動の一環として行われる対話)の中での「自分を・語る・ことば」を考えるための手 がかりにもなるだろう。  なお、三つの例はいずれもフェミニズムとその周辺に位置している。今回は、「こ とば」の分野を、このように比較的近接した領域に設定して考察を行ないたい。  これらの「自分を・語る・ことば」の特徴を最初にまとめてみよう。 (1)自分を参照枠(frame of reference)とする  「自分を・語る・ことば」は、一般的な真理を求めるのではなく、自分自身を判断 の参照枠として、選択を行なう。あるいは、普遍的な言語で語られているものを、自 分自身を参照して問題構成を問いなおす。ここに「自分を・語る」意味の中心が置か れている。抽象的な「理論」 をそのものとして語るのではなくて、 自分の生という 「実践」を通じて、それを語ろうとする。  自己を参照枠とすることは、自己を閉じてしまうことではなく、むしろ自己を通じ て世界を見ていくこと、あるいは、常に自己を振り返りつつ理論の一般性を問いなお してゆくことなのである。  この点について、上野千鶴子はaの著者との対談の中でこのように表現している。 「自分の穴を掘ったら世界に通じるって信じることね。」(6)  bでは、以下のような再認識として、この問題が語られる。「さまざまなことを書 いたことで、ようやく、私がどうやって『レズビアンとはだれか』と問うことをやめ、 『私がレズビアンのひとつの現実である』と言うにいたったかが自分のなかではっき りした。もうひとつの言いかたをすれば、この一年あまりの間にさまざまなことを書 いたことで最終的に私は『レズビアンとはだれか』を問うことをやめ、『私がレズビ アンのひとつの現実である』ということに気づき、それを表明する手段を手に入れた のだ。」(7)  またcにおいては、「フェミニズム」ではなく「“ふぇみにずむ”」と銘打つ、そ このところに、自己を参照枠としていく姿勢が表明されている。「そう……去年の今 頃、わたしは『ふぇみにすと』と名乗っていたっけ。 誤変換じゃない。 ひらがなの 『ふぇみにすと』! かつてのウーマン・リブの女性たちが、最近になって『りぶ』 もしくは『りぶりあん』などと名乗るのと同様に、わたしも『フェミニズム』に『わ たし』を込めたかった。自分の足で立ち自分の直観と思いに頼る『ふぇみにすと』で ありたいと思っていた。」(8) (2)自分の中の亀裂・他者性を見る  「自分を・語る・ことば」は、自己が一枚岩的な存在であるとは考えない。自己が 矛盾に満ちた存在であること、自己の内部の他者性、これらを認識する(9)。  aでいう「とり乱し」などは、まさにこれである。「リブを運動化して間もない頃、 それまであぐらをかいていたくせに、好きな男が入ってくる気配を察して、それを正 座に変えてしまったことがあった。(・・・・)楽でかいていたあぐらを正座に変えてし まった裏には、 男から、 女らしいと想われたいあたしがまぎれもなくいたのだ。 (・・・・)その時のあたしの本音とは、あぐらを正座に変えてしまった、そのとり乱し の中にある。」「あぐらから正座に変えた、そのとり乱しの中にあるあたしの本音と は〈女らしさ〉を否定するあたしと、男は女らしい女が好きなのだ、というその昔叩 き込まれた思い込みが消しがたくあるあたしの、その二人のあたしがつくる『現在』 に他ならない。」(10)「『加害者の論理』が問題なのは、それが被抑圧者としての自 己を切り捨てさせてしまうからだ。抑圧者であり、被抑圧者でもあるという矛盾の中 に、闘いの弁証法が息づいているのに、抑圧者一辺倒で塗り固め、たてまえでしかな い革命の大義を使命感をもって奉らせてしまうところに、『加害者の論理』の犯罪性 があるのだ。」(11)  また、cにおいては、このように自覚されている。「善かれ悪しかれ、社会と自分 の矛盾、信念と実態の矛盾を抱えたままで生きていくしかない。矛盾を抱えた<わた し>をまるごと受け入れていくのだ。」(12) (3)自己の肯定  「自分を・語る・ことば」は自己を否定しない。これがもっとも強く主張されてい るのはaの中でである。田中は、「自己否定」を要求した一九六〇年代後半の学園闘 争・新左翼運動に対する批判から、この主張を打ち出してゆく。つまり、自分が抑圧 者・管理者の側に立つ存在であることを意識的・無意識的に察知した「エリート」た ちが、そうした自分の存在を拒絶するものとして、「自己否定の論理」をとらえるの だ。そして、では、「女=無価値な存在」としての自分を日々意識しつつ生きている 自分は、「これ以上なにを否定すりゃいいというのだ!」というのが、田中の生の声 =開き直りである。「ああ、東大生というのは、自己肯定しえるものをもっていたか ら、あんなにラディカルに、『自己否定の論理』を打ち出せたのだなあ、と今さらな がら思い当ったというわけだ。」(13)  これに対して、後の世代である掛札は、より素朴な形で肯定を行なっている。「結 局、『レズビアンである』と言うことは、 『今、 自分が親密な関係をつくっている (つくろうとしている)のは女性である○○さんだ』という事実を示すひとつの方法 でしかない。」(14)ここでの彼女の気づきは、「私が私であるのは当然だ。それでな ぜいけないのか。」という、きわめて素朴ではあるが根本的な自己肯定であるように 思われる。  cでは、自己の存在の危機的な状況において、筆者が自己を肯定していく場面が印 象的に語られる。「わたしは泣きながら叫んだ。『フェミニズムを捨てろというのは、 過去のわたしを否定しろということです。今のわたしは過去があってのわたしです。 これまで蓄積してきた「自分」を捨てて、世の中に適応して楽になろうとも、わたし は「わたし」を生きたことにはならない! それは嫌です!』」(15) (4)「傷み」を語る  「自分を・語る・ことば」の持つ力は、主にこの点に由来する。自分の抱えている 「傷み」(田中美津は「己れの闇」(16)という)を「語る」ことで、「ことば」は力 を持ち、そして社会運動としての意味を持つようになる。a、cでは「女であること の生きにくさ」が、離婚、中絶などの自分の経験やジェンダーの形成などへの言及を 通じて語られる。bでは、異性愛中心のこの社会において、同性愛者であること、特 に「女性の」同性愛者であることそのものが、まさに「傷み」であると言える。  もっとも、「傷み」を語ることは、その「痛み」(苦痛)を語ることに等しいわけ ではない。「痛み」の語りはえてして「愚痴」に流れていくし、それほど大きな力を 持つとも思われない。むしろ、ここにあげた「ことば」の中では、「痛みの克服」の 過程が語られていることに注意したい。語り手はすでに「痛み」を何らかの形で克服 しているか、あるいは克服の過程の中に既にあるのである。または、田中美津が言う ように、「いま痛い人間は、そもそも人にわかりやすく話してあげる余裕などもち合 わせてはいない」[田中、前掲書、八五頁]ので、「痛み」はこのような形では語ら れないのかもしれない。  これら四つが、「自分を・語る・ことば」が力を持つための条件でもある。本稿で 取上げている三つの「ことば」は、四つの特徴をきわめて凝縮した形で表していると 言える。  もっとも、一般の「自分を・語る・ことば」においては、これほどの密度や深さは ないかもしれない。しかしながら、拡散した形であれ、浅薄なものであれ、さまざま な「ことば」は、そのどこかでこれらの特性を示す部分を持っているものと考えるこ とができる。その限りにおいて、あらゆる「自分を・語る・ことば」は、社会運動と して意義づけられ得るのである。 三 社会運動としての意味 (1)「自分を・語る・ことば」は、自己を対象とする社会運動である。  まず、「自分を・語る・ことば」は、それ自身が自己を対象とする、すなわち「自 己変革」を志向する社会運動であるという側面を持つ。自己の内部の亀裂や他者性を 発見するという作業は、自己の成立を通時的・共時的に理解し、語りを通して自己を 再構築する作業であると言えよう。自己は、即自的に存在するものとしてだけでなく、 「自分を・語る」過程の中で客観視することを通じて再構築されるものでもある。こ の作業を通して、自己は自分自身によって再認識され、新しく作りなおされる。  ここで何が生じるかを、もう少し詳しくたどってみよう。 a.「自分を・語る」過程の中で、対象となるのは、これまで社会的環境の中で形成さ れてきた即自的な自己である。「自分を・語る」過程の中で、まず、通常は必ずしも 認識されていない自己内部の亀裂・矛盾・他者性が認識される。同時に、あるいはそ れに続いて、自己の肯定が行われるが、ここで上で認識された自己内部の矛盾や亀裂 などは、否定されずに(否定されると、自己は矛盾のない、首尾一貫した存在として 再び認識しなおされることになる)そのまま引き受けられる。  つまり、社会関係の中で与えられたアイデンティティを自明のものとしてそこに安 住してしまうことなく、自らの存在そのものを問いに付すことが行われているのであ る。ミシェル・フーコーが指摘しているように、現代社会における支配の形式は、個 々人を自分のアイデンティティに強制的につなぎとめることを特徴としている。「こ の権力形式は、個人を類別する日常生活に直接関わり、個人の個別性を刻印し、アイ デンティティを与え、自分にもまた他人からもそれと認められなければならない真理 の法を強いる。」(17)彼がここで示唆しているのは、支配は、外部から個々人の行為 を拘束し、その変更を強制するようなあり方だけでなく、個々人の内面をある特定の 形で構成するようなあり方でも働いているということである。 言い換えるならば、 「自己との関係」のあり方が、個々人の生を拘束しているという側面が指摘されてい るのである(18)。  「自分を・語る・ことば」は、その内面構成のあり方自体、「自己との関係」その ものを問題化するものである。すなわち、「自分を・語る・ことば」は「自己変革」 志向の社会運動であるが、この時の「変革」の意味は、「自分を別な存在に変えてし まう」(そのためには、おそらく今の自己の存在を全否定する「自己否定」の作業が 必要であろう)ことではなく、むしろ自分自身への視線の性質を変えることであると 言えよう。ここでは、「自分を・語る・ことば」は、「自己との関係」の刷新、自己 の再認識・再構築としての「自己変革」の社会運動である。 b.さらにこのことが重要なのは、内部の亀裂・矛盾の認識を通じて、自己が、総体と して何らかの差別や害の受け手(以下、単に「被害者」)として存在するわけではな く、また総体として何らかの差別や害の加え手(以下「加害者」)としても存在する ものではない、ととらえられているからでもある。「自分を・語る」ことは、このよ うに、ある人間が完全なる被害者でも完全なる加害者でもないことを明らかにする。 逆に言うならば、ある一人の人間は、ある部分で加害者であり同時に別の部分で被害 者でもあることになる(19)。  「自己否定」という思考は、加害者としての自己の存在を全体として放棄して、そ れによって被害者の立場に立とう、とするものである。これに対して、「自分を・語 る・ことば」においては、「自己肯定」の立場が取られる。それは、ある意味では、 自らに対する非常に厳しい態度でもある。それは、一つには、「自己否定」という一 種の免罪符によって、自分の「加害者性」を改めて問いに付すことなく片付けてしま わないということであり、もう一つには、田中美津が言うように、「己れの闇は己れ の闇。被差別部落民の、在日朝鮮人の、百姓の闇を、あたしたちは共有できない。し かし、己れの闇に固執する中で、その共有できない闇の、共有できない重さの、『共 有できない』ということを己れにどこまでも背負っていく」(20)ことを、自分の「傷 み」を語ることを通じて明らかにするのであるといえる。つまり、人の 「傷み」 は 「わからない」ということを認めていく、ということである。  「自分を・語る・ことば」の場合には、これが逆説的に意味を持つことになる。確 かに、「傷み」を語ることは、単なるカタルシス、あるいは愚痴や感情の吐露で終わ ってしまいかねない側面を持っている。しかし、 そこにとどまらず、 自己の内部の 「加害者性」と「被害者性」をともに引き受け、他者との了解の不可能性を認識しな がら、それでもなお語り、そして当然ながらその語りに耳を傾ける他者が存在するな らば、自己と他者が衝突し、なんらかの共通の尺度、すなわち社会性が生まれる可能 性が存在するのだ。  そして、そこで生じる社会性は、当然ながら社会から与えられたものとは異なった 尺度である。その尺度は、 社会的に流通している一般的カテゴリー (「女/男」、 「障害者/健常者」、等)とは、たとえ同じ言葉で表現されていても異なった意味を 持つ、〈個〉に根ざした、個人性の文脈で語られるものであろう。自己と他者との関 係も、この共通の尺度にもとづいて取り結ばれるようになる。ここでは、「自分を語 ることば」は、与えられた社会的カテゴリーを解体‐構築しつつ、新しく他者との関 係を構築しなおしていくという、自己と他者との関係の変革としての社会運動である という側面を持つ(21)。 (2)「自分を・語る・ことば」は、社会運動と運動の外部との接点に位置している。  「自分を・語る・ことば」は、そのすべてが社会運動として認められるわけではな い。「自分を・語る・ことば」は、ここで取上げたような、凝縮された形を取るとは 限らない、と先に述べた。拡散した形の「自分を・語る・ことば」は、日常的な会話、 口喧嘩の中での言葉、日記の記述、などの中に現れるだろう。これらは通常は、もち ろん「社会運動」とは認められていないし、また(1)で考えたような意味の「自己 変革」志向の運動にもつながりにくい。それは、密度が小さいために、自己の再認識 や関係の再考が言説の中で曖昧になってしまうためである。  しかし、このような形態の「自分を・語る・ことば」も、社会運動とまったく切れ た存在とはいえない。なぜならば、それらは社会運動を通時的・共時的に支える役割 を果たしている側面があると考えられるからである。  社会運動の発生には、通常、主体内部での社会的不満・相対的剥奪の蓄積が前提と される。あるいは、さまざまの組織化されない抗議行動などが、運動の形成に先立っ て想定される(22)。こうした不満の蓄積・未組織の抗議行動(特に散発的なもの)も また、運動とは認められることはない。しかしながら、それらは運動の形成にとって は不可欠なものであるといえる。「自分を・語る・ことば」も、極端に個人的な文脈 で、しかも(本稿でとりあつかったような凝縮された形態をとらない多くの場合には) 散発的で未組織な形で行われる行為である。だが、関連する論点を目的に掲げる社会 運動(本稿の三つの例では、女性解放運動・フェミニズムや同性愛者の運動)にとっ ては、こうした行為の蓄積が必須ともいえるのである(23)。  また、通時的にだけでなく、運動が進行する中で共時的にも、運動の内部には位置 づけられないが、運動を支えているこのような行為は存在し、社会運動にとって重要 な役割を果たしている。これらの行為は、組織的に動員されたものではないかも知れ ないが、運動を支え、その活性化に貢献しているといえる(24)。こうした、「運動の 内部には位置づけられないが、運動のイシューに関連していて、運動が形成・維持・ 発展する上で重要な役割を果たす個別的・集合的な行為」を、ここでは〈原‐運動〉 と呼ぼう。「自分を・語る・ことば」は、こうした〈原‐運動〉の一つの形態として の側面を持つのである。  この〈原‐運動〉は単に運動の下ざさえをしているだけでなく、運動の再構成の源 泉でもある。ある社会運動は、運動としての同一性を、当初から・常に、確立してい るわけではない。運動としての同一性が形成されてくる過程が必ずある。その過程に おいては、運動と〈原‐運動〉のはっきりとした区別はまだない。運動が形成されて くるどこかの時点で、この二つは区分される。ある場合は、〈原‐運動〉の側は「運 動にあらざるもの」として、運動の側から切り捨てられる。しかし、この時でも、今 述べたように〈原‐運動〉は、運動そのものから分離してしまうわけではない。「自 分を・語る・ことば」などの〈原‐運動〉は、適切な回路が存在すれば(註(24)を参 照)、運動の内部へ回収されてその再構成の契機となるだろう。運動の新しいイシュ ー、運動の新しい構成者、運動の新しい形態、などは、運動が立ち上がる瞬間だけで なく、運動が進行する過程においても、こうして運動の内部へ入り、運動を再構成す る可能性が開かれるのである。 四 結語  「自分を・語る・ことば」は、もちろん可能性だけでなく問題点をもあわせ持って いる。  その問題点の多くは、まさに「自分を・語る・ことば」が力を持つ点の裏返しであ る。すなわち、(1)特殊個別的な文脈の極限で語られるために、状況を共有しない 聴き手にとっては理解が困難であること、場合によっては強い反発を招くこと、(2) 個人的経験に基盤を置くために、集合行為としての社会運動に必須な共有された価値 がそこからは形成されにくいこと、などである(25)。  江原由美子は、すでにリブ運動についての一文において、「『生き方』のレヴェル の解放論と、社会思想、社会変革理論としての解放論は、異なる次元の問題である、 この2つのレヴェルの充分な自覚の不在が、リブの論理をしばしば空転させてしまっ た。」(26)とし、また、「たしかに、『個人的な経験』は運動の原点として必要では ある。しかしそれを運動の中で行動計画・闘争目標と結びつけることなしに、個人的 な関係の平面で充足させてしまうならば、話し合いの場は単なる『おしゃべり』の場 になってしまう。」という批判を加えている(27)。  しかし、右のようにこれを、「自己変革」志向の社会運動として、また、社会運動 の形成・維持・発展にとって重要な役割を果たす〈原‐運動〉としてとらえることに よって、その意義と限界を明確にすることができるだろう。つまり、(1)「自分を・ 語る・ことば」は「自己変革」志向の運動としては重要であるが、「制度変革」志向 の運動ではあり得ない(あるいは「制度変革」へ結びつけるには非常に困難が伴う) である、ということ、すなわちそれはあくまで社会運動の両輪のうちの一つでしかな いこと、(2)「自分を・語る・ことば」は、〈原‐運動〉として運動の形成・維持・ 活性化にとって必須の機能を果たしているということ、ただしそれは、拡散した形で あらわれやすく、場合によっては何らかの手段によって回路づけることが必要である こと、この二点に集約できる(28)。  したがって、「自分を・語る・ことば」は、手放しでそれに飛びつくことができる ものではないし、飛びついてしまって終わりとしてしまってよいものでもない。しか し、さまざまな文脈で社会運動の一種の閉塞状況が一部で問題にされている現在、抽 象的で運動の担い手の身体から距離のある理論ではなく、常に(顕在的・潜在的な) 運動の担い手の生活と実感に近いところに基盤を持った社会運動の実践と理論が必要 だといえるのではないだろうか(29)。  「自分を・語る・ことば」はそのための一つの糸口であり、さらに「自分を・語る・ ことば」 について、 既成の 「学問」 の言葉を可能な限り使って語ろうとすること ――本稿が試みるこのこともまた、そのための手がかりであろう。 [註] (1) Diani, M., "The Concept of Social Movement", The Sociological Review, 38-1, 1992, pp.1-25. (2) 栗田宣義、「社会運動を構成する三つの論理」、 『社会運動の計量社会学的分 析――なぜ抗議するのか』、日本評論社、一九九三年、に所収、第6章。 (3) 石川准、「社会運動の戦略的ディレンマ」、『社会学評論』、第三九巻第二号、 一九八八年、一五三ー一六七頁。 (4) 日本のウーマンリブ運動および田中美津についてのより詳しい分析は、 江原由 美子、「リブ運動の軌跡」、および「ウーマンリブとは何だったのか」(ともに、江 原、『女性解放という思想』、勁草書房、一九八五年、に所収)を参照。また、三木 草子・佐伯洋子・溝口明代編、 『資料 日本ウーマン・リブ史I 一九六九〜一九七 二』、京都、松香堂、一九九二年、は資料として貴重である。 (5) ちなみに、非公式の情報ではあるが、この会議室は、 NIFTYーServe の社会・教育・研究系のフォーラムの中では、飛びぬけた回数・時間のアクセスがあ ったと聞く。 (6) 上野千鶴子・田中美津、『美津と千鶴子のこんとんとんからり』、木犀社、 一 九八七年、二二八頁。 (7) 掛札、前掲書、二一五頁。 (8) Cookie、一。 (9) こうしたアイデンティティの多数性を、 筆者は 「ポリ‐アイデンティティ poly-identity」 と呼んでいる。なお、この概念についてはジュリア・クリステヴァ の「ポリローグ polylogue」の概念を下敷きにしている。Kristeva, J., Polylogue, Paris, Seuil, 1977(足立・沢崎・西川ほか訳、『ポリローグ』、白水社、一九八六 年)、を参照。 (10) 田中、前掲書、六八頁。 (11) 同書、二四二頁。 (12) Cookie、一八。 (13) 田中、前掲書、五一頁。 (14) 掛札、前掲書、二一頁。 (15) Cookie、五一。 (16) 田中、前掲書、二八〇頁。 (17) Foucault, M.,"The Subject and Power", in Dreyfus, H.L. and Rabinow, P., Michel Foucault : Beyond Structuralism and Hermeneutics, Harvester Press, Sussex, 1982, p.212(渥美和久訳、「主体と権力」、『思想』、一九八四年四月号、 二三八頁)。 (18)「自己との関係」については、Foucault, M., L'usage des plaisirs (Volume 2 de Histoire de la sexualite), Paris, Gallimard, 1984(田村俶訳、『性の歴史 II:快楽の活用』、 新潮社、 一九八六年)、 および、Foucault, M., Le souci de soi (Volume 3 de Histoire de la sexualite), Paris, Gallimard, 1984(田村俶訳、 『性の歴史III:自己への配慮』、新潮社、一九八七年)、を参照。 また、 高橋準、 「新中間層の再生産戦略――一九一〇年代・二〇年代日本におけるその『自己との関 係』――」、『社会学評論』、第43巻第4号、三七六ー三八九頁、は、この問題に 関連して、「自己との関係」が支配システムの安定の立場からも重要であることを指 摘している。 (19) そして、そのことがおそらく、「自分を・語る・ことば」の語り手にとっては、 社会運動へ参加する際の大きな動因になるものと思われる。また、「新しい社会運動」 におけるいわゆる「良心的参加者」の存在を、この観点から考察することも可能であ ろう。すなわち、「良心的参加者」は、加害者の位置にいながら、別の観点・問題で は被害者であり、ある一つの害に対して響き合うものを自己の内部に持っているがた めに、運動へ参加すると考えられるのである。 (20) 田中、前掲書、二四一頁。 (21) ここでは、こうした自己と他者との関係の変革も、「自己変革」 志向に含めて 考える。 (22) これまでは、社会運動への社会心理学的アプローチ、 および集合行為論アプロ ーチなどがこの点に着目してきた。 なお、 塩原勉、 「運動論パラダイムの整備」 (『組織と運動の理論』、新曜社、一九七六年、に所収)の「社会運動の総過程」図 式を参照。 (23) 女性解放運動と同性愛者の運動で、「自分を・語る・ことば」 が重要な意味を 持っていることは明らかである。たとえば、動くゲイとレズビアンの会編、『ゲイ・ リポート』、飛鳥新社、一九九二年、や、女性たちのミニコミなどに「自分を・語る・ ことば」が取上げられていることに、それはよく表されている。 (24) コンシャスネス・レイジングやアサーション・トレーニングは、 〈原‐運動〉 を意図的に組織化して運動の維持・発展に寄与せしめようという、〈原‐運動〉の回 路づけの意味を持つ、と考えられる。 (25) また、本稿で取り上げた三つの「自分を・語る・ことば」がいずれも、文筆業、 すなわち「文章のプロフェッショナル」の手によることに注意したい。「自分を・語 る・ことば」を、的確に、凝縮された形で表現するのは非常に難しいことであろう。 ここで取り上げたような形で、万人が自己を表現できるわけではない。 (26) 江原、「リブ運動の軌跡」、一五四頁。 (27) 同論文、一三九頁。 (28) ここに取り上げた「自分を・語る・ことば」のうち、 書かれた時期が早いaは ともかくとして、cなどはかなり自分自身の役割を限定しているところがある。たと えば、「フェミニストの学者たちを責めるつもりはない。個人的には、学問の世界そ のものに貢献しうる業績を重ねていると考えている。ただし、彼女たちの説くフェミ ニズムは、部分的なものにすぎないことを忘れてはならない。なぜなら、学問の言葉 で語り始めたとたんに、フェミニズムの根本にあったはずの個人性、身体性、あるい は悔しさ、悲しさ、空しさといった情緒や愛憎・・・・そうしたものが、切り捨てられて いくからだ。」[Cookie、二七]というところなどは、明らかに、運動の担い 手である女性の身体から遠く離れた所にあるように感じられる現在のフェミニズムの 理論・分析に対する批判を投げかけ、自己の立場を明確に打ち出しながらも、「学問」 としてのフェミニズムの価値を認めている。 (29) たとえば、井上芳保はフェミニズムについて、「『心をうつ』 という経験をわ れわれは普通の日常生活の中に見出しうる。(中略)そのような一人一人の実際の生 活経験に根ざした、形式合理性に覆われた知性の虚しさや口先だけで心の感じられな い議論の偽善性に敏感な感覚を備えた自己言及的フェミニズムが必要となっている。」 と述べている。井上芳保、「ルサンチマン型フェミニズムと解放のイメージ」(江原 由美子編、『フェミニズムの主張』、勁草書房、一九九二年、に所収、第四章)、一 六〇頁。 [付記]  連載の引用を許可して下さり、報告の草案・草稿にいくつもの適切なコメントを下 さった清水久美さん、 および、草稿を読んで下さり、 同じく助言をいただいた佐藤 裕さん(富山大学)に感謝いたします。