〈インサイダー〉の思想 ――眉村卓「司政官」シリーズ                                   高橋 準 眉村卓の〈インサイダー〉文学論  SF作家眉村卓(1934〜)がデビュー時より一貫して追い続けているテーマがある。 それは「組織人」だ。これはもう、彼のライフワークである。  福島正実が『司政官』によせた「解説」によれば、彼が1960年代後半に提起した「イ ンサイダー文学論」は、SF作家の中に論議を巻き起こしたことがあるという(「解説 ・〈司政官〉に至る道」、『司政官』に所収)。福島の「解説」に引用されている『S Fマガジン』1968年2月号の「SF人がこう評価する」は、60年代末のラディカリズム の中で、SF作家という知識人たちが何を考えていたかがよくわかる座談会だ。  この中で眉村は、〈インサイダー〉を「産業人間のやっていることを知っている人 間」と定義している。博識な小松左京はその意味を眉村の文脈で深く理解せずに、「新 らしいかたちのテクノクラート」「権力コントロール側にまわるテクノビューロークラ ート対新らしい大衆」などと一人合点しているし、平井和正は「インサイダーに文学は 必要かな」と〈インサイダー〉=権力側の人間という枠組みで理解しようとしている。  〈インサイダー〉はもちろん「アウトサイダー」に対立する概念である。アウトサイ ダーは、体制の外部におり、権力から利益を引き出すことはないが、それゆえに権力か ら自由であり、体制や権力を批判することが可能な位置にあるとされる。権力に毒され ていない無垢な彼もしくは彼女は、権力を批判する正当な理由と権利がある、というわ けだ。典型的には、少数民族や若者、あるいは女性、被差別者などがこれに該当するだ ろうか。組織に属さない「自由業」の一種である作家もまた、おそらく作家当人の自己 認識としてはアウトサイダーの典型なのであろう。  先の座談会の中でも眉村は、「たとえば日本の文学は青年の文学だといういいかたが ある。日本の文学は反逆の姿をとることによって成立したというところがあるわけです よ。ところが正直な話、三十くらいになってくると、だんだん体制側で動かしているも のの骨組がわかってくる。その、妙な力学みたいなものが。そういったものを見ると、 ふつうの場合、みんな文学を放棄してしまう。」ともどかしげに述べている。(眉村は このとき30代前半である。)  座談会の中では何気なく聞き逃されているようだが、眉村のこの発言は文学というも ののあり方やカウンターカルチャー一般(若者のロックグループやヒッピー、あるいは 学生運動なども含む)に対する鋭い批判として考えることができる。あるいは、体制側 に身を移しつつ、それに無自覚なままで、あるいは自覚していながらもアウトサイダー として振る舞う文学者に対する批判であるとも言える。  体制に対するアウトサイダーでなければ文学は(あるいは体制批判は、と言ってもい い)何かを語れないのだろうか。いや、はたして体制の「外部」なるものがそもそも存 在しうるのだろうか。(大学という一つの「制度」の内部にいる研究者・学生は、自由 に批判をしうるアウトサイダーの位置にいるのか、と言い換えてもよい。)  眉村の〈インサイダー〉の思想は、あえて体制内にとどまり、その体制から外に出ら れない自分を意識しつつ、しかし体制の作動する論理を十全にわきまえているという 「専門人」であるという利点を活かしながら、体制を批判したりあるいはおのれの意を 貫き通すことをめざすことできるのだという、その可能性を示唆してくれる。体制批判 や体制変革は決してアウトサイダーだけが行なえる特権ではないのだ。 「司政官」シリーズ  「司政官」シリーズは、眉村の〈インサイダー〉の思想をもっとも深く追求した作品 群であるといえる。個別の作品のテーマは、実は、SFらしく異文明ないしは異種生命 体と人間社会との接触というものであるが、基調にあるのは「司政官」という組織人の あり方の問題だ。  司政官は、一方では「連邦経営機構」という星間国家の行政組織の末端に位置する。 その意味では、官僚制機構の最下部に位置する存在である。だが、司政官は、同時に惑 星統治システムの内部では行政機関の長(その中心にあるものが「司政機構」で、これ は司政官とロボット官僚からなる)であり、強い権限を有してもいる。上から見れば単 なるチェスの駒にすぎず、だが惑星の人々から見れば、特に司政官の歴史の初期におい ては、技術的・経済的優位と連邦の権威をバックにした、王のごとき全能の存在である という、二重性を帯びた存在である。  「司政官」シリーズは、司政官制度が、惑星植民地の発展および司政機構の内部的な 構造改革(司政機構という官僚制システムも、機能分化と肥大化を免れない)とともに 変容していくさまを描いた、一種の行政サイエンス科学フィクションとしても読むことがで きる。しかし、ここではその読み方を避け、作中に登場する「組織の中の人間」として の司政官個人に焦点を当てて話を進めることにしよう。 『引き潮のとき』――司政制度の終焉間近に  『引き潮のとき』(全5巻)は、1983年から1995年にかけて『SFマガジン』(早川 書房)に144回にわたって連載された。この作品は「司政官」シリーズの最新のもので あり、おそらく今後大部の「司政官」シリーズは書かれることがないのではないかとい う見込みがあるという点では最後のものであるかもしれない。時代的にも、司政制度が 連邦内ではほぼ役割を終えつつある時期を舞台にしており、以後の物語は恐らく司政制 度の最終的な破綻――「アンシャン・レジームの終焉」としてしか描かれ得まい。  さて、物語の主人公は、そうした時代背景のもとに、なおかつ司政官コースを選択 し、現役の担当司政官になることを希望するタトラデン出身のキタ・PPK4・カノ= ビアである。彼は、幼いころに両親を亡くし養育院で育った。タトラデンは初期からの 入植者のうちで政治・経済的実権を握る地方有力者の一族が「名家」として君臨する社 会であり、才能があっても名家の出でなければ、あるいは名家のひきがなければ高い地 位について権限を握ることは決してできない社会であった。後発の植民者出身であり、 なおかつ孤児であるキタは、自分の可能性を伸ばすためには星間連邦へ出て行く必要を 強く感じ、猛勉強の末に試験に合格して、待命司政官になるまでになったのだった。  この時代、司政官としての訓練を受けても実際に担当司政官になることはまれになっ ていた。訓練を終えた候補生は待命司政官という地位を与えられ、高級官僚のプールに 加わる。多くの人間は担当惑星を持つことなく、外から引き抜かれて、受けた訓練分の 地位・報酬を与えられる。しかし、キタは実際に担当司政官として仕事をしたいとい う、ある意味で古いタイプの、理想を持った人間であった。  ある日、キタは連邦経営機構から担当司政官になることを命じられる。驚いたこと に、彼の担当として与えられた惑星は、彼の出身惑星であるタトラデンであった。これ は、「厳正中立な司政」を行わなければならない司政官としては異例のことであった。 自分の出身惑星を担当した司政官は、何らかの理由で出身惑星のしがらみ・利害関係に 巻き込まれて、司政に失敗するのがほとんどであったからだ。  「それには相応の理由があるはずだ」という彼の予感は的中する。彼に与えられた任 務は、単に一司政官として通常の司政を行うだけではなく、タトラデンが属する第45 星区のブロック化(経済・軍事等の独立性の高まり、および最終的には連邦との抗争・ 連邦からの離脱)をふせぐことであった。そのためには、タトラデンがリーダーシップ を握って星区のブロック化を進めている現状を打破するために、タトラデンの外に向か うエネルギーを内部抗争へと向けなければならない。その微妙な操作を行うことができ るのは、タトラデンで生まれ育ったキタにしかできないと連邦経営機構は判断したので ある。  司政官みずからが担当惑星に意図的にトラブルを生じさせ、ブロック化を阻止しなけ ればならない――キタは与えられた任務と自分の理想との矛盾に苦しみながら、それで もみずからがこの任務を担当しようと決意し、タトラデンへ向かう。 〈インサイダー〉としてのキタ・PPK4・カノ=ビア  見方によっては、キタのこの態度は、連邦の走狗に成り下がって自分の出身惑星にと って不利益になるようなことを行う「冷たい」組織人のありかたのようにも見える。キ タは先ほど述べたとおり、才能がありながらもタトラデンでは報われることがない存在 であった。特に名家は、彼にとって自分の可能性をはばみ、自分を苦しめた憎むべき存 在である。ブロック化によって名家の勢力がタトラデンを超えて星間に広がることは、 キタにとって面白かろうはずもない。彼がブロック化を阻止するという任務を引き受け たのは、かつての復讐という意味合いを込めて受け取られるかもしれない。  実際、キタが引き起こしたのは、新しい自治区を認めて既存の地域の権利を相対的に 剥奪したり、自治区(を支配する名家)の辺境開拓に制限をかけて結果的に地域間の対 立・騒乱を引き起こし、インフレの急速な進行を黙認するなど、タトラデンをいたずら に混乱させるような諸々の状況である。その結果としてタトラデンでは内部抗争が激し くなり、とても星区ブロック化のリーダーシップを握るどころではなくなってしまっ た。連邦の目的はほぼ完璧にキタによって達成されたのである。  しかし、キタは果たして自分に冷たかったタトラデンへの復讐を図ったのだっただろ うか。そうではない。彼の心理を追ってみよう。  キタには、司政官は単なる連邦の手先であってはならないという思いがあった。もと もと司政官の仕事は植民者の便宜を図り、その惑星開発を支援しつつ、原住種族・先住 民の生活環境を破壊しないように見守り、必要があれば介入するというもので、一種双 面神のような立場に置かれている。最初から矛盾した役割を担う、切り裂かれた存在な のだ。(「限界のヤヌス」はその矛盾が露呈し、カタストロフィへと向かってしまうに いたった短編である。)しかし、個々の司政官にとっては、いかに矛盾したものであ れ、与えられた状況の中で自己の信念を貫くことが理想の貫徹としてとらえられてき た。(と、少なくともキタは受け止めている。)  キタにとっては、その与えられた状況とは、出身惑星のタトラデンに対する郷愁やそ こで生きている名家に属さず、何の特権も有しない植民者たちへの愛情と、タトラデン に抗争と混乱を呼び覚まさなければならないという使命との間の矛盾であったわけであ る。彼にとっての衿恃とは、おそらく使命は使命として完遂しつつ、その中で連邦が意 図したところを超えて、タトラデンにとって究極的にはプラスになるような、そんな状 態へと事態を運んでいくことだったのではないだろうか。  「やりようによってはこの任務を、連邦経営機構の思惑通りにではなく、自分のやり 方で遂行することだって可能かもしれない。(中略)奇妙ないいかただが、連邦経営機 構を出し抜くことも出来るかもわからないのだ。」  「だから、これは、タトラデンへの愛情のためなどではない。すくなくとも、それが 主役ではない。  では何なのだ?  プライドかも知れない。  これは、自分自身のプライドの問題なのではないか?」[1巻、pp.70-71]  だからこそ彼は、自分がこのプロジェクトを担うべきだと決心したのである。そこで 強調されるのは、司政官の自主性、主体性である。「組織の中の人間」が、組織の原理 に縛られてしまうのは当然だ。それが近代型の組織のありようであることは、間違いが ない。しかし、眉村が「司政官」シリーズの中でくりかえし述べているのは、彼ら/彼 女ら組織人が、単に組織に使われてしまうのではなく、与えられた状況を主体的に生き きろうとするその思いである。  キタは与えられた任務をこなし、タトラデンに混乱を引き起こした。その一方で、ミ ンガツ学校を設立し、「連邦の視点に立って」惑星の状況をみつめることのできる人材 を育てようと試みた。また、自治区の開発を抑えることで先住民の居住を確保したので あり、そのほかにも先住民固有の文化を紹介したり、先住民の自主的な地域経営や産業 の育成にも取り組んだ。任期終了間際に彼がミンガツ学校の教員と学生(おそらく彼を 最後まで支持したのはここの人たちだっただろう)を前にして説いた、「タトラデンの さまざまな因子を組み替えて新しい秩序を作り上げる」という目的は、おそらくキタの 真情であったに違いない[5巻、pp.318-319]。彼は与えられた任務を超えたところを 達成することを目指したのであり、また実際に――部分的には――達成したに違いな い。 絶望を超えて  眉村の〈インサイダー〉とは、こうした人間の生き方を表わしたものである。「冷た い機械」としての官僚制は現代社会の逃れられない「鉄の檻」(M.ヴェーバー)であ るかもしれないが、その中で生きる熱き思いを持った人間へのぎりぎりの期待を、眉村 は司政官たちに託している。  『消滅の光輪』では、マセ・PPKA4・ユキオが、進化と征服を求めるハムデ型の 生命体(地球人類がこれにあたるとされる)と宇宙と合一して生きるチュンデ型の生命 体との、やがて来るべき遭遇に対して、両方を理解してその遭遇が不幸なものにならな いように導くことができるのは司政官だけではないかという結論に到達し、連邦の意志 のままにおどらされるだけだったように思えた司政官の仕事に新たな意味を見出そうと する。  『消滅の光輪』はアイザック・アシモフにささげられた作品であるが、そのアシモフ の晩期の作品にも似たようなモチーフが現れる。「ファウンデーション・シリーズ」 は、「セルダン・プラン」という銀河規模でのユートピア計画の実現を描こうとしたも のであったが、シリーズ初期のアシモフが社会発展と銀河帝国成立のための「法則」を 求めようとしていたのに対して、80年代以降のシリーズ作品の中では、人間を単に法則 に支配されるだけの存在としてではなくとらえようとしている。またハリ・セルダン を、法則を求めるだけの科学者としてではなく、さまざまな思いを持った一個の人間と しても描き切っている。  これらはいずれも「安っぽいヒューマニズム」であるのかも知れない。しかし、いま だわたしたちの多くは組織にとらわれて生きるしか道がないのであり、これからも長き に渡ってそうであろう。だとするなら、組織の中で絶望してしまうよりも、絶望しない ことが組織のあり方の延命につながるとは知りつつも、その絶望を超えて〈インサイ ダー〉として生きることに一つの活路を見出すことはできるとはいえないだろうか。  わたしたちはすべての進化を見とおすことのできる〈神〉ではない。しかし、〈神〉 になれないからといって、〈道化〉として生きなければいけないということもない。組 織の中に生きつつ組織を超えていく〈インサイダー〉として、生きていくことを構想し えないだろうか。 ☆「司政官」シリーズ・リスト  『司政官』、ハヤカワ文庫JA、1975年。  『消滅の光輪』(全3巻)、ハヤカワ文庫JA、1981年。  『長い暁』、ハヤカワ文庫JA、1982年。  『引き潮のとき』(全5巻)、早川書房、1989〜1995年。